6月26日(聖霊降臨節第4主日)
聖書:ルカによる福音書6.1–11
説教題:「安息日の主」浅尾勝哉
讃美歌:4、(21)57、166、541
今朝は、ルカによる福音書6章1から11節より、神さまの言葉を共にお聞きしましょう。
本日の聖書箇所には安息日という言葉が何度も出てきました。先ほど、共にお聞きしましたルカによる福音書6章1から11節に6回記されています。本日のお話のキーワードは安息日であります。安息日はイスラエルの民の生活に密着した制度であります。安息日はユダヤ教の暦の中で、最も大切な日であるといえます。安息日の掟を遵守することはモーセの十戒で命じられています。安息日の掟につきましては、出エジプト記20章8から11節、あるいは申命記5章12–15節に記されております。
『出エジプト記』20章では、父なる神さまが天地創造において7日目に休まれて、この日を祝福し聖であると宣言したために、安息日を覚えて聖なる日とし、労働してはいけないことを教えています。また『申命記』5章では、父なる神さまがユダヤの民をエジプトの奴隷の状態から解放したことを記念して、全てのものに休養を与えるために安息日を覚えて聖別し、その日に労働してはならないことを教えています。このように、安息日は、神さまが天地を創造したことを覚えるとともに、神さまがユダヤの民が異国のエジプトで奴隷とされ歴史より消し去られることから救って下さったこと、そして神さまがユダヤの民を神の民として下さったことを覚える記念日であるのです。安息日はバビロン捕囚期以後、ユダヤの会堂であるシナゴーグに集まって、神さまを礼拝する日となりました。
ユダヤ教の安息日は、週の7日目、毎週の金曜の夕方から土曜日の夕方まであります。なお、キリスト教では週の初めの日曜日を安息日として神さまを礼拝します。「イエス・キリストの復活」「復活したキリストが弟子たちに現れた日」「聖霊降臨」が起こった日は、いずれも「週の初めの日」すなわち日曜日であります。このため、キリストの復活を記念し、復活の日である日曜日を「主日」、「主の日」や「聖日」と呼び、安息日として礼拝を行うようになりました。主の日に神さまを礼拝することが目的であるということにおいて、ユダヤの安息日と同じであると言えます。
しかし、この聖書の時代において、その安息日の律法の本来の目的が忘れられ、次第に神さまへの礼拝よりも、仕事をしないと言うことに重きを置かれるようになりました。1世紀末のユダヤ教では安息日の禁止規定は39ありました。さらに、それぞれに39の細則がありましたので、150もの禁止事項が定められていました。当時のユダヤ社会の中心的な勢力をなしていたファリサイ派の人々はそれに疑問を持たず、逆にそれを律法の本質を考えず、文字通りに只守ることが神さまの御心に適い、喜ばれることだと考えるようになっていました。所謂律法主義に陥っていました。そうなってきますと、安息日の本来の意義が失われることとなり、それは神さまの御心をないがしろにされているといえます。
ところで、本日の聖書箇所はルカによる福音書6章ですがそれ以前においても、主イエスは、安息日に仕事をされていることが書かれております。4章39節で、シモン・ペトロの姑の高熱を癒やされています。しかし、この時点では問題になりませんでした。ところが、5章で、中風の人を癒やした際の「人よ、あなたの罪は赦れた」という発言や、また罪人とされる徴税人レビを弟子に選び、さらにレビやその徴税人仲間たちと食事をした時から、主イエスの言動がファリサイ派の人々の琴線に触れて、マークされるようになりました。そして、6章より主イエスは、安息日の本来の精神を取り戻すために、ファリサイ派の人たちや律法学者たちと論争を行うようになりました。
本日の聖書箇所である6章1から11節は安息日の2つのエピソードを記しています。まず、1つ目のエピソードですが、それは安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べるというものです。1節に「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」とあります。
ガリラヤ湖畔で開始された主イエスの宣教開始の初期は「ガリラヤの春」と一般に呼ばれ、行く所行くところで歓迎され、いつも多くの人に取り囲まれ、不眠不休の忙しさで、町や村を訪ねて御言葉を語り、病める人を癒やし、多くの人に平安と癒やし、励ましを与えていました。その様な状況でありますから、主イエスも弟子たちも疲れて、空腹でありました。空腹を紛らわすために、弟子たちは麦の穂を摘んで殻を剥ぎ、麦の実を食べたのでした。
そのことに対して、2節ですが、ファリサイ派の人等は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言います。これは、主イエスの弟子たちが、他人の畑で盗みを働いたと咎めているわけではありません。他人の畑で麦を取って食べることは律法で許されていました。申命記23章26節に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と書かれております。麦を手で摘んで食べるのは良いとされています。ただ、鎌で刈り取って持ち帰るのは犯罪になったようです。この律法は貧しく空腹な人を助けると言う人道的なものです。ただ問題なのは、それが安息日に行われたということです。安息日を厳守するファリサイ派の目から見れば、弟子たちのとった行為は安息日の規定に違反していることになります。弟子たちが「麦の穂を摘み、手でもんで食べた」という行動が律法違反だというのです。麦の穂を摘んだことは安息日に収穫の禁止を犯し、手で揉むことで脱穀の罪を犯し、殻をはぐことで篩かけの罪を犯し、それを食べたことは安息日に食事の用意をした罪になる、というものです。ファリサイ派の人たちの考えでは、麦を一口食べただけで、安息日に関わる4つの違反をしたことになります。現代の私たちからすると非常に滑稽に思えますが、ファリサイ派の人たちはこれを真面目に守ろうと努めていました。そして、それに違反する者は律法に反するとして処罰されました。
ただ、ファリサイ派の熱心さは、何でもかんでも、一概に否定はできませんが、時々その熱心さは自己絶対化され、本来の意味が見失われていくことに繋がります。なぜなら、自己絶対化された人は、福音の持つ許しと恵みを見失ってしまうからです。今日の私たちにも同じことが言えます。自己を絶対化する時、人は神の恵みを覚えることができません。現にファリサイ派の人たちは安息日を文字通に熱心に守ろうとするとで、その本来の意味を受け取る柔軟な心を閉ざしています。
弟子に向けられたファリサイ派からの質問に対し、3節と4節で、逆に主イエスはサムエル記上21:1−6に記されたダビデ王のエピソードを挙げて質問を投げ返します。主イエスは「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」と問いかけられました。
サムエル記上21:1−6に記載された頃のダビデはまだ王ではなく、サウルが王でした。この場面でダビデはサウル王に命を狙われ、数人の従者と共に逃げていました。その時、食べるものもなく空腹で飢えていした。そんな時、ダビデは祭司アヒメレクの所に行き神に捧げられた聖別されたパンを貰って従者と分けて食べました。このダビデの行為は、律法違反であります。祭司だけが聖別されたパンを食べることが許されていたからです(レビ24.9)。しかし、ダビデと従者たちが困窮した状態から助かることは、律法を遵守することよりも優先され、ダビデたちが聖別されたパンを食べたという律法違反を誰もファリサイ派も非難していません。人間にとって必要なことは律法主義に陥らないことです。主イエスがサムエル記上を引用し、ダビデが聖別されたパンを食べたことを示したのは、主イエスと弟子たちもそれと同じ状況だと主張したのであります。ダビデの窮乏した飢えた状態から脱するということは規則に優先しているのだという事を述べる事によって、律法に対する主イエスの考えを明らかにしたのでした。マルコによる福音書2章27節の言葉を借りれば「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マコ2.27)ということを示されたのです。
そして5節で「人の子は安息日の主である」と主イエスは言われました。主イエスは異なった面から正当性を主張します。人の子とは主イエスのことであります。安息日は神さまの定めた制度であります(出20.8–11)。神さまの定めた律法の主であるとは、事実上主イエスご自身が神さまと同格であると述べておられることになります。
なお、主イエスは安息日の律法を廃止しろと語っている訳ではありません。しかし、主イエスは救い主として、その律法はもう無効であると宣言する権威を持つことを示し、自らが「安息日」の主であると宣言されたのです。
ファリサイ派にとって、律法は禁止項目のリストであり、その内容の大半は伝統や習慣からのものであり、それは人間の行動を束縛するものであって、多くの内容が聖書を根拠とするものではありません。ファリサイ派が、律法を守るということは数多くの規則に従うことだ、という考え方に対して、主イエスは、本来律法は人間の生活を守り、安息日は人間を自由ヘと解放する日である、ということを示されました。安息日の律法は、人間を神との交わりの中に導くものであり、人間に与えられた神の恵みの業であるはずです。
そして、主イエスは「人の子は安息日の主である」とご自分のメシアとしての権能を言及しています。ダビデの出来事に言及した直後にこの発言をしたことは、ダビデが律法を無視しても非難されなかったのであるならば、遥かに勝った人の子は、なお一層そう出来るハズであるということを示されているのであります。
次のエピソードは、安息日に右手が萎えて自由に動かすことのできない人を癒す、というものです。そのことが6節7節に「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」と記されています。主イエスが会堂で教えておられる時に、その会堂に右手の萎えた人がおり、またその会堂には律法学者とファリサイ派の人たちもいました。既に、主イエスは安息日に麦の穂を摘んでいた弟子たちを律法違反だと非難したファリサイ派の人たちに対し、ご自身が安息日の主であることを表明されています。そのためファリサイ派の人たちは主イエスと弟子たちを警戒し、ここでは主イエスが右手を萎えた人を安息日に癒すかどうかを監視し、もし主イエスがその手を癒せば、律法違反の罪で訴えようと企んでおりました。要するに、ファリサイ派の人たちは、主イエスを訴える口実を見つける為だけに主イエスの傍らにいたのであり、御言葉を聞こうとしていた訳ではありませんでした。
また、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは右手の萎えた人の悲しみや苦しみ、不安に思いを馳せることなど全く無く、右手の萎えた人を安息日に主イエスを陥れるための1つの道具として利用し、主イエスが律法違反をすることを願っていたのであります。宗教的指導者が安息日に会堂で礼拝に集中せず、このようなことを考えていたとは、恐ろしいことであります。ファリサイ派の人たちの企みは悪魔的であり、こころを悪魔に明け渡したようにしか思えません。
8節に、「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った」とあります。主イエスはファリサイ派の人たちの考えが、彼らの不信仰によるものであると見抜いておられました。そして、主イエスはファリサイ派の人たちの挑戦に、正面から立ち向かいました。主イエスはファリサイ派の人たちが見張りを続けている中、萎えた右手を持つ人に、会堂の席から立ち上がって、人々の真ん中へ進み出て立つように命じました。真ん中は会堂にいる全ての人から見える位置です。この人は社会の片隅で隠れてひっそりと生きていると思われます。更に想像を巡らすと、2000年前のユダヤ人社会では、手が萎えているということは、何らかの罪によると考えられていました。また、この人は手を思うように動かせないので仕事ができません。ですから、誰かの下働きとして使われる、あるいは物乞いをする以外生きる方法がなく、惨めな生活を強いられたと思われます。更に神さまに見捨てられた罪人とみなされ、おそらく、共同体から疎外されていた人であったと想像できます。
続けて9節に「そこで、イエスは『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』と問いかけられました。ファリサイ派の人たちは安息日の本来の意味を理解せずに、単に仕事をしないこととだと考えています。人は安息日に仕事をすることが許されていない、それは律法違反だという単純な発想しか持ち合わせていませんでした。そういう理解に立てば、主イエスの癒やしは医療行為であり仕事となり、律法違反となってしまいます。しかし、安息日の主である主イエスによりますと、安息日とは安息を実現する日のことであり、そのためには当然、悪を行うことではなく善いことを、魂を救うことであると言われます。ここで主イエスは、御自分の行おうとしていることを傍観している人々が無関心であることを非難しています。つまり、病気を持つなどの苦難の中にいる人を前にして何もしないでいるのは、悪を行っているのであり、その人を見殺しにしているのだと言われたのです。人は、弱り苦しんでいる人を前にする時、善を行うのか悪を行うのか、その人を助けるのか見捨てるのかのどちらかを行っているのであり、傍観者的な中立の立場はありえないことを主イエスは主張しているのだと思います。すなわち、この場面では、この人を癒やすことは、この人の命を救うことであり、何もしないということであれば殺すということになる、あなたたちはどちらかを選ぶのか、と問われているのです。この右手の萎えた人の切なる願いを愛をもって受けとめず、たとえ悪意が無くても、安息日であるからという理由で、この人を見過ごすのであればこの人の命を殺すことであり、逆に愛をもって受けとめるのであれは、この人を真実に生かすということであります。
「そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった」と10節に記されています。主イエスにとって、右手の萎えた人に対して何もせずそのままにしておくことは、この人を見殺しにすることに等しいとのお考えであります。ですから主イエスは当然の様に癒しの業を行われました。会堂には多くの聴衆がおり、ファリサイ派や律法学者たちが監視する中で主イエスは右手の萎えた人に、その手を伸ばすように命じられました。すると、その手は元通りになりました。手を癒やすことは医療行為であり、それはファリサイ派の人たちにとっては仕事になり、安息日における律法違反となります。
しかし、この主の癒やしは、右手の萎えた人にとって、それは手の回復だけに留まらず、その人の社会生活への回復でもあります。ファリサイ派の人たちは、この人の人格を無視し、主イエスを陥れるための道具の一つとしてしか見ていませんでした。しかし、主はこの人の存在そのものを真に生かす事によって、安息日は人のためにあるという本来の意味を示し、ファリサイ派や律法学者たちが悪用し、誤用していた安息日の律法を真実なものに回復されたのであります。
「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」のであります(11節)。この主イエスの癒しの御業は、主イエスによって1人の人間が新しい命へと回復された時であるのですが、同時に宗教指導者たちの激しい怒りと焦りを引き起こし、主を殺す計画が動き始めた時でもあります。
終末に向けて歩みを進めている途上において、何もかも全てがハッピーな訳ではありません。今こうして、会堂に集まり礼拝していていますが、それぞれ一人一人が色んな悩みや重荷、労苦、悲しみをお持ちだと思います。この会堂にも私たちの周囲にも、様々な重荷を負ったまさしく「右手の萎えた人」が多くおられると思います。それが身体であったり、心であったり、経済的なことであったり、外から見て気付かないことの方が多いかも知れません。今の私たちには、それを奇跡の御業によって取り除くことは出来ませんが、隣人の苦しみを傍観せず、互いに配慮し合い、助けあい、祈り合うことは出来ると思います。来るべき終わりの日に向けて希望を持って歩むために励まし合うことは大切なことだと思います。その際に、自分の基準、自分の価値観、自分の思いに依るのではなく、自分を低くして、相手の立場に立ち、神さまの目線に立って、寄り添い、励まし合うことが大切であると思います。
また、多様化し、複雑化した現代社会において、毎週、主の日に礼拝を守ることの出来るキリスト者は非常に恵まれていると思います。心ありながらそれを守れない人、仕事や介護など様々な理由で守れない人がおられます。また、様々な理由で交わりを避けて、礼拝から遠ざかっている人もいるかと思います。礼拝から遠ざかっている人たちに対して、私たちは、主の日至上主義となって、非難し裁くことは当然許されないことです。また、執り成しの祈りをするだけでは、私は不十分だと思います。具体的に何をするか、教会全体で考えるべきことであると思います。その際、複雑な現代社会のあり方も考慮し、一人一人に思いを馳せ、その人にあった方策を立てて、礼拝に招くことを実行すべきだと思います。
右手の萎えた人、それは人生の前途に夢も希望も失っていた人であったと思います。しかしその1人のために、主イエスは安息日の規定を超えて、ファリサイ派や律法学者たちの罠に自ら陥り、危険であることを知りながら、真正面から対決し、彼を真ん中に引き出して手を伸ばしなさいと呼びかけ、新しい命へと押し出されました。その主イエスは様々な重荷や苦難、悲しみを負った私たちにも「手を伸ばしなさい」と呼びかけておられます。それは自らを十字架に架けてまで私たちを愛される主の深い恵みに満ちた呼びかけであり、招きであります。私たちはその招きに応え続けたいと思います。
祈りましょう。
イエス・キリストの父なる神さま
あなたの御名を賛美致します。私たちを主の日の礼拝に招き、天上の兄弟姉妹たちと共に礼拝を捧げることが出来ましたことを心から感謝致します。
安息日を支配される神さま
イエス・キリストを通して、あなたは安息日に苦しむ人々を癒やし、安息日の意味を教えられました。私たちが律法主義に陥りそうになる時、安息日の主がなされた救いの出来事を思い起こさせ、愛の業へとい導いて下さい。
慰め主であられる神さま
私たちは休むべき時が与えられていることを感謝します。全ての人々が神の恵みのもとで安心して、心身ともに休むことが出来ますように、そして新しい力を私たちの中に注いで下さい。
主なる神さま
様々な事情で、この恵みの礼拝に集うことのできない人々を覚えます。それらの一人一人がこの群れの一員として、主の御言葉を聞き、共に祈り、共に賛美する生活を得ることが出来ますように、願わくは、そのための働き手として私たちを、用いて下さい。
私たちは先週、敬愛する兄弟をあなたのみもとに送りました。兄弟とのこの世での別れは、特にご遺族にとって、非常に寂しく辛く悲しいものであります。どうかご遺族の上に神さまが寄り添って慰めて下さいますように、悲しみによって痛む心を癒やして下さいますようにお願い致します。
これらの祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン