2020年11月29日日曜日

11月29日(降誕前第4主日 アドベント)礼拝説教

11月29日(降誕前第4主日 アドベント)
マルコによる福音書5章1−20節
「人間への回復」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌(21)242, (21)57, 425, 539

本日より、アドベントの期間を迎えます。プロテスタント教会やローマカトリック教会などの西方教会では、11月30日に最も近い主日からクリスマス前の4週間をアドベントといいます。アドベントは救い主であるイエス・キリストの到来を待ち望む期間であり、日本語では待降節(たいこうせつ)、降臨節(こうりんせつ)、あるいは待誕節(たいたんせつ)などと呼んでいます。

アドベントには、幾つか習慣があります。その一つにアドベントの聖日にろうそくに火を灯す習慣があります。ろうそくを4本用意し、第一主日に1本目のろうそくに火をともし、その後、第二、第三、第四と週を追うごとに火を灯すろうそくを増やしていきます。1本目は希望、2本目は平和、3本目は喜び、4本目は愛、と言う意味があると言われています。アドベントに4本のろうそくを灯していくという起源は一説によると、1839年のドイツのJ・H・ヴィヒャーンというプロテスタントの神学者がハンブルクにある自身が創設した子供たちの施設「ラウエス・ハウス」で始めたと言われています。特に、燭台の形状やろうそくの色に決まりはないのですが、今年はこのようなものを造ってみました。そして、今日はアドベントの最初の聖日ですので、1本目のろうそくに点火しました。

多くの教会では、本日の礼拝からアドベントにちなんだ聖書箇所をお読みするところが多いと思いますが、本日はマルコによる福音書の5章1から20節より共に神さまのお言葉をお聞きしたいと思います。なお、12月の第1聖日より、マルコによる福音書を離れてクリスマスに関連する箇所より聖書の言葉をお聞きする予定としております。

主イエスはガリラヤ湖の岸辺に集まった群衆に向かって、少し沖に泊めた舟から、あたかも舟を教会の講壇として、そこからたとえ話をされました。夕方になって主イエスは「向こう岸に渡ろう」とおっしゃられたので、弟子たちは「主イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出し」ました。向こう岸とはガリラヤ湖の東岸です。そこは異邦人である「ゲラサ人の地方」であり、そこでも神の国の福音を宣べ伝えるという計画がありました。対岸に渡る途中に突然の嵐に見舞われ、危うく舟が転覆しそうになりましたが、主イエスが風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われ、風はやみ、すっかり凪になった、という主イエスによる奇蹟的な出来事がありました。この出来事を目の当たりにした弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と畏敬の思いを持ちました。マルコによる福音書は、主イエスが誰なのかを問い、それを示す事が書かれた目的の一つであると言えます。

そして、今日の聖書では先程、お聞きしましたように、主イエスと弟子たちを乗せた舟はガリラヤ湖の東側の岸にあるゲラサ人の地方に到着しました。ここはイスラエルの民は住んでおらず、異邦人の町です。20節にデカポリス地方とありますが、デカポリスというのはヨルダン川両岸の広大な地域に存在するパレスチナにおけるギリシアの10の植民地の都市の総称であります。デカというのはギリシャ語で10を表し、ポリスは都市を意味します。これらの町はアレクサンドロス3世、所謂レクサンドロス大王の後継者たちによって建てられました。ゲラサはデカポリスの中の一つの都市であります。デカポリスは、東方におけるギリシア都市として、ギリシア語を話す多くの移民が住んでいました。一時、ユダヤ人の支配下に置かれましたが、紀元前63年にポンペイウスが率いるローマ軍によって解放され、それ以降ローマ帝国の影響を受け、シリア総督の支配下に置かれました。ですから、マルコが記している時代は異邦人であるゲラサ人が住んでいる町であり、政治的にはローマ帝国の影響下にありました。

主イエスたちがたどり着いた時間や場所については、詳細が書かれておりませんが、おそらく夜遅くか明け方であり、着いたのは不気味な場所であったと思われます。それは町の中心地から離れ、小高い崖の上には2000頭ほどの豚が飼われていました。主イエスや弟子たちユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされております。おそらくその一帯は豚の鳴き声や、臭いも耐え難いものであったと思います。また近くに墓場もありました。本日もガリラヤの風薫る丘でと、讃美歌21の57番を歌いましたが、この場所は讃美歌に描かれている風景とは可なりイメージの異なるガリラヤ湖畔でありました。しかし、この場所は主イエスが宣教の為にわざわざ訪れようとした場所であります。

主イエスたちを出迎えたといいますか、出会った人がいました。主イエスはこの人に会いに来られたのですが、どのような人かと言いますと、2節に書いてありますが「汚れた霊に取りつかれた人」であります。その人は墓場からやって来ました。その人のことが3節から5節に描かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と書かれており、相当に不気味な姿であります。現代の医学的な見地にたてば、何らかの病気に分類されるのかも知れませんが、マルコは「汚れた霊に取りつかれた人」と呼んでおります。私たちは、この人の姿やこの出来事を見て、自分たちとかけ離れた無縁のことと思いそうですが、その様に思ってここを読んでしまいますと、大切な意味を掴み損ない、イエス・キリストが何故この地上の私たちの住む世界に到来されたのか分からなくなります。

この時代のゲラサ人の住む地方を含むデカポリスについて、もう少し申しますと、紀元前2世紀の中頃に、ユダヤのマカベア時代にユダヤ人に一時支配されました。しかし、ローマ皇帝ポンペイウスの下で紀元前63年に独立都市に戻るのですが、しかし、ローマ帝国には忠誠でなければならず、納税し、兵役の義務を負っていました。そしてローマ軍の東方遠征の拠点として利用されていました。しかし、ユダヤ人やアラブ人の侵略にたいして、ローマによる護りや協力は皆無でした。したがいまして、デカポリスとして10の都市が連携せざるを得ませんでした。主イエスは非常に政治的に不安定で、市民にとっても平和や平安が希薄な闇が支配するような異邦人の地にこの出会いを求めて来られたのです。そこで出会った汚れた霊に取りつかれた人は、その時代をその場所を象徴する人であり、最も救いを必要とする人であるといえます。

汚れた霊に取りつかれた人は好き好んでこのような生活をしているのではなく、墓場ではなく、家族とともに住みたかったはずです。汚れた霊に取りつかれているというと、この人に問題があり、悪人であるように思えますが、その様な単純なことではないように思います。現代においても、社会環境、人間関係、心理状態など様々な要因に悪の力が働いて、人々を神さまの恵みから引き離すことは珍しくありません。私たちは誰もがその危険に晒されています。この人の場合、もっと様々な闇が複雑に絡み合い巨大な力となって、悪霊としてこの人を支配しているように思います。神さまの恵みを拒もうとする悪の力が人間の手に負えないものとなり、その人の人格が破壊され、その人はもう絶望しかなかったのです。そんな汚れた霊に取りつかれた人に会うために墓場へ主イエスが来られたのです。闇に差し込んだ光として来られたように思えます。

主イエスの姿を見ると汚れた霊に取りつかれた人が駆け寄ってきました。実際は汚れた霊がその様に行動しているのであります。それは歓迎して、喜んでいるのではありません。駆け寄って来た理由は、時系列にすると恐らく8節に記されているように、主イエスが「汚れた霊、この人から出て行け」と先に言われたからであると考えられます。「出て行け」と言われたから、主イエスに駆け寄り、それを阻止しようとして、6節7節に書かれた行動にでるのです。それは「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」というものです。この汚れた霊は主イエスが自分に敵対する存在であると遠くから直ぐに悟り、先手を取ろうとして、攻撃的に主イエスに向かって来たようです。しかし、近づいたためにかえって汚れた霊は自分自身に身の危険を感じ、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」とひれ伏して拝み、直ぐに主イエスが神の子であることを、ある意味弟子たちより先に、見抜いたのであります。「いと高き神」とは異邦人がイスラエルの神を呼ぶ場合の言い方です。マルコによる福音書の特徴として、神の国の力に敵対する悪霊は主イエスが如何なる存在であるかを認識しています。あたかも、「いと高き神」と言ってひれ伏す行動を見ると、主イエスを礼拝し、救いを求めているように思えますが、実際はそうではありません。汚れた霊が求めているのは「かまわないでくれ」であります。あなたと私は何の関係もないので痛めつけないでくれということです。これは汚れた霊、所謂悪霊の第一目的です。人間を支配下に置き、人間と主イエスとの関係を無関係のものにしたいと言うことであります。実際に、この汚れた霊に取りつかれた人は、人間としての自分自身を失い、人間同士の関わりもなくなり、社会から孤立し、そして更に神さまとの関係を断ち切ろうとしているのであります。このようにアダムとエバを誘惑して以来、現代に至るまで悪の力、即ちサタン、悪魔、悪霊の目的は首尾一貫しており、人間を神さまとの関係を損なわせて罪へと導くことです。それによって、人間は悪魔の奴隷、罪の奴隷、死の奴隷になってしまうのです。神の似姿として創造された神の像(かたち)である人間を破壊するのです。しかし、神の独り子であるイエス・キリストは、この悪霊の支配する時代を打ち砕き、悪霊の奴隷、罪の奴隷、死の奴隷となっている私たち人間を解放してくださるために、私たちのこの世に、この時代に2000年前に到来して下さったのであります。

 猛威を振るおうとした汚れた霊でしたが、主イエスを前にしてあっさり弱気になります。9節で主イエスは汚れた霊に「名は何というのか」と尋ねられます。「名はレギオン。大勢だから」と答えます。相手の名を知るということは悪霊との戦い、悪魔祓いにおいて、相手より優位となり、相手を支配下に置くことになります。汚れた霊は素直に名を名乗ってしまうほど、主イエスの御力が圧倒していたことが分かります。「レギオン」というのは人の名前ではなく、このデカポリスを支配下に置いていたローマ帝国の軍隊一個師団を表す言葉で、歩兵3000~6000人、騎兵100~200人で構成されていました。それほど大量の悪霊がこの人に取り付き支配していたのです。大量の悪霊であっても打ち勝つことはできない権威を主イエスは持っておられ、出て行けと言われれば、従うしか無いのです。勝ち目のなくなったレギオンは「自分たちをこの地方から追い出さないように」と願い、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と懇願します。主イエスが豚に乗り移ることを許されると「汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」と13節に記されております。普通に考えて、豚が集団で自死することはありませんが、主イエスがこの人の汚れた霊を追い出しただけでなく、滅ぼされるために、豚に崖からガリラヤ湖に飛び込ませたのであります。

 こうして悪霊の支配から解放されて人間性を回復した人の姿が15節に記されています。「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座って」いました。悪霊に取りつかれていた時は裸で服を着ていませんでしたが、人間性を回復し、自分をコントロールできるようになり、服を着て座っていたのです。これは想像ですが、おそらく弟子たちとともに主イエスの足下に座り、主イエスの語る御言葉を聞いていたのであると思います。実際は汚れた霊に支配されていたのですが、つい先程まで、墓場に住み、凶暴であり、大声で叫び「あなたはわたしとなんの係わりがあるのか」「かまわないでくれ」と言っていた人が、汚れた霊である悪の力から解放され人間性を取り戻した姿というのが、主イエスに聞き従う者となったということであります。悪の支配から神さまの支配の下に置かれたのです。神の自由を与えられたと言えます。現代社会において、宗教や様々な秩序を否定し、それらを無視して本能のままに生きることを自由と呼ぶ人がいます。この考えは自由を勘違いしている様に思います。そしてこの考えそのものは罪であると思います。サタンの虜へと突き進むことになると思います。神さまや信仰によって培われた秩序など、神さまや教会やコミュニティが自分を縛り付ける束縛と考えさせ、それを断ち切らせ、神さまから自由になることを望ませるのは、一言で言えばサタンであります。サタンはそのために力を容易くいくらでも与えてくれます。その結果、神さまとの関係を断ち切り、自分の言葉が奪われ、悪霊の代弁者となり、自由どころか悪霊の奴隷となり、罪と死に支配され、自分だけでなく人々を傷つけ、孤独となり、墓場以外に居場所がなくなってしまうのです。しかし、主イエスはそのようなことを望まれませんし、悪の力を許す方ではありません。そこから人間を解放する為に、未だ闇の支配がはびこるこの世界の歴史の中に入ってきて下さり、新たな時代、神の国の支配をもたらして下さったのです。それが完成され、悪が完全に滅び、罪も死もなくなるのは終わりの日、イエス・キリストが再び到来する時です。今はその到来を待ち望むアドベントの時です。実際にはクリスマス前のこの時期だけでなく、主が再び来られるまでの全ての日がアドベントと言えるかも知れません。

 話を14節に戻しますが、主イエスによってレギオンから解放された人は、救われて人間として回復し、大いなる恵みが与えられたのですが、この一人の人の回復に豚2000頭という大きな犠牲が払われました。ユダヤの人にとっては汚れた動物であるのですが、ゲラサ人が住んでいる町は異邦人の町で豚は家畜であり、豚飼いにとっては莫大な損失であり、豚2000頭が湖に飛び込んで失うということはただ事ならぬ出来事でありました。豚飼いは驚き、恐れ、怖くなって逃げ出し村や町でこの出来事を告げました。主イエスのなされた御業による一連の出来事のニュースはすぐに広がり、人々は何が起こったのかと見にやってきました。人々は主イエスに、この地方から出て行ってもらいたいと言い出しました。社会から阻害され苦しんでいた同胞の一人が救われたことを喜ぶことより、これ以上豚を失いたくない、騒ぎを起こしてもらいたくないと考えたのかも知れません。ある意味悪霊の側に立っています。しかし、これで主イエスがこの地に来られた目的の半分は達成され、まだ半分残っていますが、主イエスは逆らわずに、直ぐに去ろうとされます。主イエスが舟に乗られると、汚れた霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願い出ました。しかし、主イエスはその申し出をお許しになられませんでした。この時、主イエスに従う弟子としての道がまだ開けていませんでした。主イエスは完全に悪に打ち勝ち死に勝利することを確かなものとするために十字架と死、そして復活に至る道を歩み通さねばならず、それまで主と共に歩むのは12人の弟子たちであったのです。しかし、主イエスはこの人に特別の使命を与えられました。主エスから受けた恵みを語り伝えるべき証人として、家族やこの地方の人たちへの宣教命令を出し派遣したのです。

 汚れた霊に取りつかれていた人は家族から離れ、人々との交わりから見捨てられて生きていたのですが、家に帰ることが出来、家族や人々との交わりも回復しました。それは主イエスの御業と神の国の福音によるもので、そしてそのことを証しすることを使命として与えられました。エルサレムへの同行することだけが主に従うということではありません。彼は主の御言葉に従ったのです。汚れた霊からの縛りから解放され、今度はしっかりと主イエスに捕らえられ、主イエスに従うものとなりました。そして、20節に「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」と記されております。この汚れた霊に取りつかれた人は、真の自由を得ることができ、喜んで主イエスに従い、異邦人のデカポリス地方を使徒パウロに先駆けて異邦人伝道したのであります。こうして、主イエスのもう半分の目的が達成されたのであります。

 誰であっても、主イエスはその人を新たなものとして造り変えて生かしてくださいます。そして、恵みと御言葉を持ち運ぶ証人として用いてくださいます。そのために、一人ひとりに働きかけ、救いをもたらしてくださいます。その為にこの世に来られたのであります。その大きな恵みに感謝してアドベントの日々を歩みたいと思います。

 祈りましょう。
 イエス・キリストの父なる神さま あなたの御名を賛美いたします。アドベントの聖日の礼拝へと一人ひとりを招き、御言葉を賜りましたことを感謝いたします。
 いま、あらためて、神の像(かたち)として人を創造され、その像を破壊しようとする闇の力を御言葉によって打ち砕かれる父なる神ささまの計り知れない愛に、罪に囚われた人を、救い、回復させ、新たにして生かして下さるイエス・キリストの恵みに、そして悪霊を追放し、神の国の御力によって私たちの内に働きかけて導いて下さる聖霊なる神さまとの豊かな交わりに感謝いたします。
 心ありながら、今日ここに集えない一人ひとりの上にあなたの恵みが届きますように、特に、今、突然の病と戦いで病床に伏している姉妹の上に、また骨折の治療を受けている兄弟の上に、あなたの救いと癒やしの御手を伸べてその生命をお守り下さい。また、願わくは、これからも後、この教会の交わりの中で、共に信仰の歩みをとることをあなたの御心として下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン。

2020年11月24日火曜日

アドベントキャンドル

 いよいよ来週の聖日(2020年11月29日)からアドベントです。

 一足早く、アドベントキャンドルを飾り付けしました。

 円形リングのクランツタイプを作成を試みたのですが見事に失敗しました。
そこで横型にしました。

 吸水性の発泡体の剣山に天然の杉の葉(ツリー用の杉の木から切り落とした枝)、松ぼっくり、100円ショップで買った飾りや造花を適当に突き刺し、4本のローソクを差し込んで作りました。

正面から





2020年11月22日日曜日

11月22日(降誕前第5主日)礼拝説教

11月22日(降誕前第5主日)
マルコによる福音書4章35−41節
「嵐の中の主イエス」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌26, (21)57 273 539

本日はマルコによる福音書4章35〜41節より共に神様の言葉をお聞きしましょう。
 
 マルコによる福音書の4章1から34節では「種を蒔く人」のたとえ、「ともし火」と「秤」のたとえ、「成長する種」のたとえ、「からし種」のたとえ、そしてたとえを用いて話す理由、「種を蒔く人」のたとえの説明と主イエスの語られた一連のたとえが記されていました。その内容は、主イエスがたとえ話を使って人々に神の国、神さまのご支配の到来を語られたというものです。そして4章35節から内容が変わり章をまたぐ形で5章末の43節において4つの奇跡物語が記されています。マルコは既に主イエスの宣教活動の最初に、具体的には1章21から45節に、奇跡物語を述べていますが、それと比べて4章35節から5章にでてくる奇跡はどれも驚くべき内容の奇跡であり、描写も詳細になっています。
 
 4章35〜41節の嵐を静める話はマルコが語る最初の自然現象に対する奇跡です。1章で述べられている奇跡物語は、病気の癒やしと悪霊追放に関するものです。特にマルコは奇跡の区別化は行っていませんが、現代人はこの2つを区別する傾向があります。科学的な尺度で考え、主イエスの御業を自分たちの思考の下に置こうとします。そして自分たちの科学的な解釈に収まらないと、拒絶するのです。病気の癒やしと悪霊追放に関する奇跡については、現代人にとって科学的説明の可能な部分が多く、概ね心理学的に説明できると考えており、癒やしや悪霊追放についてはそれほど大きな拒絶を示されることは無いようです。一方、自然現象の奇跡に関しては不可能なこととして受け入れない、あるいは本来は自然現象として生じていることを伝説的に誇張しているなどと理解し、合理化をはかって受け入れようとする場合があります。また、聖書に時代において「悪霊追放」や「癒やし」は、当時の人々の間では、特別な力があれば、人間であっても行うことが出来ると考えられていました。また、実際に癒やしや悪霊追放を仕事とする人々も存在していました。しかし、嵐を静めるというような自然現象に関する奇跡は、神さまだけがそれを成し得ると考えられていました。おそらく、古代においても、現代においても、この自然現象に関する奇跡は人知を超えた超自然現象であり、人間の理性の内に全く収まらないこと、すなわち人間を遥かに超える出来事でありますので、受け入れることが出来ずに、奇跡に躓く人は決して少なく無い様です。当然、聖書においても、聖書の解釈においても、自然現象に関する奇跡の理屈やメカニズムは記されておりませんし、そのような事は不可能であります。また、奇跡のメカニズムを解明した所で信仰が養われたり、受け入れたり出来る訳ではないと思います。そうではなく信仰によって、主イエスの奇跡が私たちの歴史の中で確かに行われたということを信じる以外、奇跡の聖書記事を読むことは出来ないと思います。また、福音書記者は実際に見た出来事を証言し、主イエスにおける神の行為を証言することが目的であって、超常現象の衝撃性や、不思議さを伝えたいのではありません。その出来事を通してただ神さまを指し示し、それを聖書の御言葉として語ろうとしているのであります。もう少し具体的に言えば「イエス・キリストとは誰であり、どのような方であるのか」という問いと、それに対する回答であり、ここでは、主イエスが神的な方であることが、その神だけにしか成し得ない偉大な奇跡行為によって示していると伝えているのであります。
 
 前置きが長くなりましたが、それでは35節より、順を追って聖書の言葉を読んでいきたいと思います。35節に「その日の夕方になって」とあり、その日がどの日なのか、明確ではありませんが、4章1節からの流れで読みますと、主イエスは終日に亘って多くのたとえ話で神の国について教えられて、そして「その日も」すでに夕方になったと読めるかと思います。この時、主イエスはガリラヤ湖の岸辺に集まった群衆に向かって、少し沖に泊めた舟から、あたかも舟を教会の講壇として、そこからたとえ話をされました。夕方になって主イエスは「向こう岸に渡ろう」とおっしゃられたので、弟子たちは「主イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出し」ました。向こう岸とはガリラヤ湖の東岸です。そこは異邦人である「ゲラサ人の地」であり、そこでも神の国の福音を宣べ伝えようとされたのだと思います。

 そして、36節に「そこで、弟子たちは群衆を後に残し」と、わざわざ断っており、他の舟も一緒であったと述べています。これは4章11節で「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」といわれたの同じ様に、ここでも弟子たちと外の人々と群衆とを区別して、違いがクローズアップされています。群衆たちは主イエスのたとえ話を聞き終えると殆どそのまま家に帰ったのですが、弟子たちは主イエスの御言葉に従い、ともに舟で対岸に向かって進んでいきました。ここに弟子たちと群衆を始め外の人々との間の違いがあります。その違いは、ひとことで言ってしまえば、主イエスに従って、共に歩んだかそうでないかということです。群衆は主イエスの御言葉を聴きましたけど、話が終わりますと、それぞれ家路につき日々の生活へ戻りました。御言葉を聞いても、変化することを求めず、悔い改めて福音を受け入れ神の国の到来を願わなかった、また現実のこととして捉えなかったのかも知れません。主イエスの言葉を聞いたけれども、聴き終えると、その時点でリセットして、全てを忘れて元の生活に引き返したのであります。それに対して弟子たちは主イエスの御言葉を聴き、おそらく主が語られたその御言葉の真意を分かった訳ではないと思いますが、主イエスの向こう岸へ行こうという招きの言葉に従い、その先に何があるのか分からなかったのですが主と共に進みだしたのです。教会は舟にたとえることができます。私たちキリスト者は主イエスと共に教会という舟に乗り、神の国を目指しているのであります。主イエスに御言葉を聴き、そしてその言葉に従い主イエスや仲間たちと共に教会という舟に乗り新たに旅立っていくのです。なお、教会という舟はいつでも乗ることが出来ますし、定員はなく何人乗っても満員にはならず、どの様な嵐が来ても沈みません。なぜならイエス・キリストが共に乗っておられるからであります。また、どの様な航路で進むかは私たちが決めることではなく主が決めて下さるのです。その先に何があるのかどの様な景色があるのか、冒険旅行ではありませんが、当然困難や艱難に見舞われることもありますし、逆に喜びや恵みを受けることもあると思います。信仰の父であるアブラハムは行き先を知らず、主なる神さまを信頼し、信仰者として歩みだしたのです。新宮教会も全く同じであります。明治の初めに、船に乗り太平洋の対岸にある、異邦人の国である日本を目指して福音宣教のために宣教師であるヘール兄弟がアメリカからやって来られました。楽な船旅ではなかったと思います。そして、最初に蒔かれた種が新宮教会として芽生えました。ヘール兄弟を通して語られた神の国の福音を聴き、9人の信徒が新宮教会という舟に最初に乗り込み、主イエスを船長として神の国を目指して舟出したのであります。その新宮教会という舟に今ここにいる私たちも乗っているのであります。今この教会に属するのは、見える教会に属して生きている私たちだけではありません。既に召された多くの兄弟姉妹たち、すなわち更に大きな見えない教会が属しているのであります。

 そして、次に、37節ですが、主イエスと共に弟子たちを載せた舟は突風に襲われました。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と記されています。聖書に登場する信仰者の旅路も同じで、私たちキリスト教信仰者の旅路には、苦しみや困難にしばしば出会います。それが日々の生活であると思います。私たちは礼拝で御言葉を聴き、神さまの恵みと派遣の言葉によってそれぞれの生活の中に送り出されます。その生活は常に平穏無事ではないと思います。様々な突風や荒波にあい、それこそ水浸しになり沈みそうになることもあるというのが現実です。私たちが行きていく上で出会う苦労や災難は無数にあり、それぞれここにおられる皆さまはそれを経験しておられると思います。ここで、私がありきたりの実例を挙げる必要はないと無いと思います。しかし、今日の聖書が語っていることは、生きて行くことにおいて誰でも起こりうる災難や苦労では無さそうです。この世を行きていく人生においての災難や苦労はキリスト者であろうがなかろうと出会うものです。何が違うかというと主と共に歩んでいるかいないかの違いです。主イエスと共に舟に乗り沖へ進んだ為に、弟子たちは突風に見舞われ、危険にさらされることになるのです。陸で主イエスの話を聞いただけで、日常生活に戻ってしまった人たちは突風や嵐にあうことはなかったのであります。そうであれば主に従う不幸になるのかと考えてしまいそうです。ここで主イエスと共に歩むことの意味を考えてみたいと思います。
 
 主イエスに聞き従った者が嵐に合うのです。すなわちこの嵐はキリスト教信仰者であるから遭遇する嵐であり災難と言えます。キリスト者として神の恵みや喜びを多く賜るのですが、キリスト者であるからこそ心の底から揺さぶられるような危機を感じる時があります。この38節の嵐の中の弟子たちの姿からキリスト者の危機を見ることができると思います。この舟に乗っていた弟子のうちペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは元ガリラヤ湖の漁師であり、この湖のことを熟知しており、舟の操作においても習熟していました。また、この湖では、しばしば突風が吹くことも、漁師としての経験から知っていたはずです。その様なこの湖で漁師として様々な経験をしていた弟子たちが取り乱して「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」というほどの激しい突風が吹き、舟は波をかぶり、浸水し、遭難しそうな危険な状態となっていました。その時、主イエスは艫で、艫というのは舟の後ろの方ですが、そこで眠っていました。疲れておられたのかも知れませんが、弟子たちにとっては、何を呑気なことをされているのか、と思えたのかも知れませんし、なぜこんな危険な場面で眠っておられるのかと、苛立しく思えたのかも知れません。内心では、あなたが向こう岸へ行こうと言わなければこんな危険な目に合わなかったのだ、と考えたかも知れません。そのような思いがあったためか、弟子たちは眠っておられる主イエスを、声を荒らげて起こし罵るように「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫んだのだと思います。これは弟子たちの信仰が弱いとか、主イエスは神の子であり救い主であるので、どの様なことにも動じない、信仰心が高ければ、心頭を滅却すれば火もまた涼し、というようなことを言っているのではありません。弟子たちは、自分たちが危機に襲われているにも関わらず、主イエスが眠って沈黙して気づいてくださらないと感じて、この様に厳しく罵るように言葉を発したのであります。おそらく弟子たちは自分たちに迫りくる危機にさらされている中で主イエスが何もして下さらない、主イエスを信じて従ったのだけど、それは間違いだったのか、それどころか苦難にさらされることになってしまったと感じて動揺したように感じ取れます。この様に私たちにおいても、イエス・キリストを信じているからこそ動揺するときがあります。洗礼を受け、礼拝を守り、御言葉を聞き、主イエスに従って信仰の歩みをしても、生活の中で様々な苦しみや艱難、老いや病気、死がもたらされます。人生における猛烈な嵐のような悲しみや艱難にさらされた時に共にいてくださるはずの主イエスを見失いったり、あるいは主が沈黙されているように感じ、本当に主イエスが共に居られるのかと感じるときがあるのです。また教会そのものにおいても、大きな試練にあった時に、牧師や長老が主イエスはおられない、沈黙されている、御声が聞こえないと、迷ってしまうこともあるのです。

2016年に映画化されて話題にもなりましたが、沈黙という遠藤周作先生の小説があります。主人公でありますポルトガル人のイエズス会宣教師ロドリゴはキチジローに裏切られて捕らえられます。ロドリゴは苦難の中で主イエスが沈黙されていることに絶望します。そして奉行所の中庭で踏み絵を踏むことになるのですが、足を近づけた時に足に激しい痛みが走ります。その時、踏み絵の中の主イエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という主イエスの御声を聞きます。そして、絶望と敗北観の中にいるロドリゴのもとにキチジローが許しを求めてやってきます。主イエスはそのキチジローを通して、「私は沈黙していたのではない、お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか」と語りかけるのです。この言葉を聞き、踏み絵を踏み、背教というこれ以上ない挫折をしたロドリゴはそこで初めて神の御心、神の国の秘密を知ったのであると、私は感じました。その後、ロドリゴは江戸時代の日本に残り、司祭としての自覚を持って生きるのであります。フィクションでありますが、核心をついていると思います。

私たちが教会という舟に乗り、人生において、苦しみや悲しみの中で支えとなる信仰が揺さぶられ、その舟で主イエスが沈黙されていると思い、そして主イエスを見失ってしまい、それによって絶望の中で闇の深淵にそのまま沈むのではないかと、信仰を持ち主イエスに従うからこそ、その様な想いに陥る時があるのです。

しかし、実際には教会という舟は間違いなく主イエスが乗っておられることを知るのです。39節ですが、主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になったと語られています。主なる神さまは、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という混沌の世界に「光あれ」と言葉で命令し、光を創られたように、「黙れ。静まれ」という言葉で命令し、嵐を鎮められたというマルコの証言は、主なる神さまの権威を主イエスが持っておられることを示しています。主イエスは神の独り子として天地万物を創造された神さまの権威と力を持っておられ、その主イエスがこの世に到来されたのでありますから、神の国、神さまのご支配は既に始まっています。私たちはその主イエスの舟に共に乗り込んでおり、終わりの日、救いの完成される日に向かって前進しているのです。

そして、嵐を鎮めた後、主イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」といわれます。呆れたようにも聞こえますし、怒っているようにも聞こえますが、励ましておられるようにも感じます。「まだ信じないのか」と主イエスは言われましたが、何を信じるのか、ということを明確にしておくことは大切だと思います。結果を申しますと、主イエスは、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい、という言葉と共に福音宣教を始められました。そして弟子を選び、従うようにと召し出され、ともに信仰の旅路を歩まれたのであります。言い換えれば、もう既に貴方たちは神の国、神さまのご支配の中に捕らえられているのであり、神の国は必ず完成するのであるのだから、信じて怖がらず、信仰の旅を続けなさい、私が共に歩むのである、そのことを信じなさいということです。キリスト者であっても、やはり悲しい時には悲しく、辛い時は辛い、痛い時には痛いのですが、どの様な困難の中であっても、船が沈みかかっていても共に主イエスが共にいてくださるということと、神の国は完成されること、救いが完成され永遠の命を賜るという約束が成されていることを忘れてはならないのです。

風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われ、風はやみ、すっかり凪になった、という出来事は弟子たちにとって、想定外の出来事であったと思います。おそらく弟子たちは、主イエスに寝てないで、起きて、一緒に水を汲み出して下さいと願っていたと思います。そちらの方が常識的な考え方だと思います。しかし、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」、突然の嵐がおさまり、大凪になったことを目の当たりにして、弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったのでした。この畏れというのは嵐での恐怖とは違うものです。これは自然現象を制圧する、天地創造をされた主なる神さまの権威を主イエスが示されたことに畏敬を持ったということであります。ここで弟子たちは、主なる神さまへの畏れは同時に主イエスへの怖れであり、主なる神さまへの信仰は同時に主イエスへの信仰であることを感じ取ったのであると思います。この畏れは、私たちの信じる主イエスは私たち人間の思いに収まらず、私たちの理解を遥かに超えた方であることを知ることであり、これは主イエスを信じ舟に乗り、信仰の歩みをしたものだけが感じることの出来る畏れであるのです。

このような主イエスが私たちと共に教会という舟に乗り、共に進み行こうと招かれています。主イエスが乗っておられるこの舟は決して沈むことはなく、必ず神の国へ到着するのです。

ところで、今日で、教会の暦の上では今年最後の礼拝となります。次週よりアドベントに入ります。教会暦はアドベントから始まります。11月30日に最も近い主日からクリスマス前の4週間をアドベントいいます。2020年は11月29日からアドベントに入ります。ともに、主の到来を待ち望むアドベントの礼拝を持ちたいと思います。

祈りましょう。
イエス・キリストの父なる神さま あなたの御名を賛美いたします。
今朝も私たち一人ひとりを呼び、この会堂へと招き、共に神さまの言葉を賜りましたことを感謝いたします。
暴風が吹き荒れ、混沌と闇の深淵に光あれと命令し、その権威ある言葉で光をつくり、それ以来、今もこの世を支配しておられる父なる神さまの愛に感謝いたします。
教会という舟に私たち一人ひとりを招いて下さり、神の国へむけて共に乗船し、舟を進めて下さる主イエス・キリストの恵みに感謝いたします。
そして、喜こびに満ち溢れ、恵みを感じているときも、また不幸や悲しみ苦難にあるときも、主を信頼するよう歩ませて下さる聖霊なる神さまの働きに感謝いたします。
この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

2020年11月15日日曜日

11月15日(降誕前第6主日)礼拝説教

11月15日(降誕前第6主日)
マルコによる福音書4章26−34節
「種の成長」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌24, (21)57, 234A, 544

 本日はマルコによる福音書4章26−34節より、共に神さまの言葉をお聞きしましょう。
 
 先程、共にお聞きしました聖書の言葉は主イエスの2つの「種」に纏わるたとえ話が語られています。ひとつは「成長する種」のたとえで、もうひとつは「からし種」のたとえです。「からし種」のたとえについてはこれまでに幾度となくお聞きになったという方が多いのではないと思います。しかし「成長する種」の方は、皆さまにとって印象が薄いのではと思います。「からし種」のたとえは他の共観福音書であるマタイによる福音書にもルカによる福音書にも記されております。しかし、「成長する種」のたとえは、他の共観福音書には並行記事がなく、マルコのみに記載されておりますので少々印象が薄くなっているのかと思います。
 
 マタイによる福音書は実践的な信仰を強調することに重きをおいています。たとえば「狭い門から入りなさい」(マタ5.13)、「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタ5.39)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5.44)、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタ7.7)「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタ7.12)などの御言葉よりマタイによる福音書が実践的な信仰を語っていることが分かります。またルカによる福音書は続編の使徒言行録とあわせて、教会の建設や福音宣教など積極的な伝道の活動に力点を置いて記しています。しかし、マルコによる福音書の「成長する種」のたとえは「土はひとりでに実を結ばせる」(4.28)とありますように、神の国すなわち神さまのご支配は人間の働きによるのではなく、そこには神さまの働きによって成長することが強調されています。ですから、ただ読み流せば神の国は人間が労せずにいつの間にかやって来ると解釈されかねません。その様に解釈してしまいますと他者に依存する安易な態度を強調しているように思われます。そのため、他の福音書における主題と趣が異なる為であるのかどうかその理由は明確ではありませんが、あえて記載しなかった様に思えます。しかし、「成長する種」のたとえもそうですが、「からし種」のたとえも倫理や道徳に関する教えや教訓ではなく「神の国」そのものを教えるものであります。

 主イエスの「神の国は次のようなものである」と言う言葉から「成長する種」たとえは始まります。ここで主イエスが示されている「神の国」とはある特定の領域を指すのではなく、神さまのご支配のことであります。したがって神さまのご支配が及んでいるところは神の国が来たと言えるのです。主イエスが1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という事が示す通り、神の国がもうあなたの所に来ている、あなた方の間でそれが現実のものとなっているということです。なお、「神の国」は死んでから行く死後の世界であると、このたとえを捉えることは正しいと言えません。主イエスは神の国を死んだら行く所であるとか、それは素晴らしい楽園であるからぜひ神の国へ行けるように洗礼を受けて下さい、頑張りなさいと言われておられません。神の国は神さまのご支配であり、それはやって来る、近づいてくると語られています。神の国は歴史を貫き、時を越えて展開し、突き進んで来るのです。ただ、「神の国」は誰にでも分かって、見えるものではありません。私たちの目ではっきり見ることの出来るものでは無いのです。ですから4章11節で「神の国の秘密」という言い方をしています。その隠された神の国の秘密を教えようとするのが聖書であります。しかし、その聖書の中で主イエスが語られている神の国のたとえ話は、聞けば誰もがすっきりわかる明瞭なものではなく、神の国をわずかに感じさせる、或いは垣間見させ、神さまのご支配を信じることへと導く、信仰への招きであると言えるのではないかと思います。

本日の聖書箇所の26節から28節に「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。このたとえで語られているのは蒔かれた種が芽を出して、成長し、やがて実が実るのですが、それは当たり前の事のようですが、種を巻いた農夫は何故その様になるのかを知らないということです。蒔かれた種は土に埋もれてしまい、その姿は何処にあるのか分からず、隠された状態です。しかし種は土の中で人には見えませんが発芽し根を張り成長するのです。それは人が夜昼、寝起きしている内に起こるのです。農夫はその為に水や肥料を与えるなど世話をしますが、それらの水や養分を吸収して成長していくのは、人の力によるものではなく種のもつ力であります。ですから、ひとりでに実を結ぶように見えるのです。この「ひとりでに」という言葉は「アウトマトスαὐτόματοσ」という言葉で「そのものが望む」という意味があり、自動的という意味のオートマチックの元になった言葉です。それは人の目から見れば「ひとりでに」ですが、そこには神さまの力が働いており地の中で神さまの望むように成長させ実を結ばせるのです。もう一度、整理して述べますと、農夫によって蒔かれた種は土の中で、神さまによって成長させられます。それは人が寝ている夜の間にも、神さまは働きかけ芽を伸ばし続けさせているのです。人が気づかないほどゆっくり芽を伸ばし続けさせ、人はどのようにして種が成長しているのか知らないのですが、それは土の中の隠れた所から神さまが成長させて、遂に実を結ばせてくださるのであると語っているのです。そして神の国もそれと同じであると言えるのです。この世に主イエスが来られて、既に神の国の種をこの世界に蒔かれました。その種は見えないのですが、確実に成長しているのであります。人間の思いや考え及ばない力で神さまが育ててくださり実を結ばせてくださろうとされておられるのです。

そして29節ですが「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とあります。これは私のイメージですが、この29節の言葉とヨハネ黙示録の14章14−19節で描かれている終末的な場面と重なります。
確認のためにヨハネ黙示録の14章14−19節をお読みします。

14 また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。15 すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」16 そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。17 また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。18 すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」19 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。(黙14.14–19)

ですから、黙示録的に申しますと、この箇所は父なる神さま、主イエスよって神の国がどの様に成長するかをこのたとえが語っており、主イエスによって神の言葉が人々に蒔かれて、父なる神さまがそれを育てられて、この世においてキリスト者が起こされ教会が建てられ地の果てまですべての人に福音が宣べ伝えられ、実を結ぶと、鋭い鎌をもった主イエスと天使があらわれてその実を刈り入れ、裁きが行われるというイメージです。このことは人が種の成長の仕組みを知らないのと同じ様に、神の国がどのようにして立てられていくのかを知らないことを意味します。神さまは人が休んでいる間も生きて働いてくださっているのであります。そして種の成長は気が付かないほどゆっくりであるように見えても確実に神さまのご計画を実現していくのです。そのご計画が達成する、すなわち完成するときが終末であります。神さまは確実に蒔かれた種を育てるように、神の国を育てて完成して下さるのであり、そこに希望を持ち、収穫の時である終わりの日をめざして生きるようにと勧めているのであります。これが「成長する種」のたとえの概要であります。

 そして、更に、イエスは別のたとえを話されました。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 主イエスは、神の国がからし種の様なものであると言われておられます。からし種は1mm程度の小さな種で、生長が早く3mから4mにもなると言われています。実際にはもっと小さな種もありますが、当時のパレスチナ地方では最も小さい種とされていました。このからし種の成長は神の国の発展と進展に似ていると主イエスは言われるのであります。このたとえは比較的分かりやすいように思えます。あまり詳細を解説する必要もないように思います。それは、主イエスがこのからし種のたとえを話された時から2000年ほど経過した現代からの目線で見るから、分かるのであります。主イエスがこのたとえを語られた時というのは、神の国が本当にからし種のように小さな種として出発し、今現在のキリスト教会のように大きな樹として成長するとは、その当時このたとえ話を聞いた人々は容易に信じて受け入れることを出来なかったと思います。それと、このたとえはからし種そのものをについてではなく、からし種がどの様に変化していくかをたとえているのであります。このからし種のたとえは4章の最初の「種を蒔く人のたとえ」の延長線上にあります。主イエスの御言葉の宣教で始まった神の国は、非常に小さな運動でありました。それは主イエスが僅かに12人の少数の弟子を選び、ご自身のそばに置かれることから神の国の宣教が、小さなものとして始まりました。大伝道集会を開き、濡れ手に粟のように一挙に大量の人を回心させて、大教団を創設することはされませんでした。主イエスは選んだ僅か12人の弟子たちだけに、密かに神の国の秘密の解き明かしをし、その弟子たちへの教えと奉仕に集中されたのです。僅かな弟子たちから始まった種蒔きが、すなわち蒔かれた神の国の種は、この世の様々な悪の力と対峙しながら、なかなか実を結べないという困難を重ねながらも、しかし、最終的には30倍、60倍、100倍の実を必ず結ぶのであります。そして神の国はその様な豊かな実りの収穫へと向かって進んでいくのであります。神の国は私たちの世界の、生活の内にあり、私たちをその成長の渦の中に巻き込みながら終わりの日、完成に向けてその成長し、神のご支配は大きくなりながら進んでいくのです。私たちはその中に巻き込まれ、そして主イエスと出会うという神の国の体験をしているのであります。その神の国の種の成長を止めることは誰も出来ません。

「からし種のたとえ」に続く33節と34節はたとえではなく4章の一連のたとえ話の締めくくる言葉と言えます。主イエスは聞き手の聞く力に応じて様々なたとえで教えられました。ただそのたとえは容易く分かるものではありませんでした。一方、主イエスは弟子たちにはたとえを用いずに、神の国の秘密を説明されました。すなわち弟子たちと、外の人たちとでは区別があったのです。どの様な基準で区別があったということですが、それは今も申しました「人々の聞く力に応じて」であります。ですから神の国の秘密が打ち明けられていた12人の弟子たちと、神の国の秘密についてたとえで話された群衆との違いは「聞く力」であります。これはどんな小さな音でも複雑な音でも聞き分ける聴力の事でもなければ優れた理解力を意味するものではありません。主イエスに聞き従うかそうでないかの違いです。12人の弟子たちは躓くこともありましたが主イエスに聞き従おうとしていました。しかし、群衆が聞き従ったのは一瞬であったり、病気の癒やしを受けることや奇跡に興味を掻き立てられたというものが大半でありました。聞き従うとは、常に神さまに向き合って信じて従い、常に悔い改めが求められます。聞く力がある人とそうでない人の違いは、人格が優れて善良である、清く誠実であることが求められていることではなく、人間には欠けがあり、弱さがあり、罪があり、そして自分自身で作り上げた価値観を持っていますが、それらが神さまに打ち砕かれ、そのことを受け入れて神さまを信じて歩む人であるか、そうでないかという違いであると思います。ただ、神の国の秘密は未来永劫秘密であるのではありません。主イエスにおいて神の国、神さまのご支配が既に到来していること、それは神の国の秘密と言われていますが、それはこの世界において着実に大きく広がって私たちを巻き込んで完成へ向けて進んでおり、その完成は神さまによって成され、豊かな実りをもたらせて下さり、収穫が行われることを、既に私たちは使徒たちによって纒められた聖書の言葉を通して知っているのです。そして私たちは主イエスのたとえを聖霊の力の助けによってその真理を垣間見る事ができるのです。そしてその聖霊の力に従って神の言葉を実践し、その言葉の示す内容を教えられるのであります。

 主イエスは御言葉の種を蒔き続けられました。そのために人々の心を耕し続けられました。そして主イエスは私たちを含めて全ての人々の罪を背負い十字架にかかって死んでくださいました。しかし、その時12人の弟子たちは逃げ去りました。それは主イエスに聞き従うという信仰の歩みにおいての大きな躓きであります。信仰における挫折です。それでも父なる神様の力によって復活された主イエスがもう一度、彼らを選んで御自身の元へと召されたのです。彼らの全ての罪を赦してくださり、その罪を洗い清め、悔い改めさせて、新しく生きるものとして下さったのです。神の国、神さまのご支配は主イエスの十字架の死と復活を通して、人間の思いや力を遥かに超越した神さまの力によって進み、実現していくのです。そして、ここにいる私たちも、神の国、神さまのご支配が進み、実現していく中で、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みを豊かに受け、信じるものとされ、そして新たな一粒のからし種として蒔かれるのであります。そのからし種は成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張り、30倍、60倍、100倍の実を結ぶものとされるのです。
 
 祈りましょう。
 イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を賛美いたします。今朝も、私たち一人一人をこの会堂へと召し集めてくださり、御言葉を分かち合うひと時を賜りましたことを心より感謝いたします。
 神の国の建設のご計画に、小さな私たち一人ひとりの人間を用いてくださる神さまの愛に、そして神の国の秘密を解き明かし、この地上における最初の一粒の種となってくださいましたイエス・キリストの恵みに、そして私たちの見えない所で夜も昼も働き、私たちに召命の思いを起こさせ、義認へと導き、聖化し、信仰の実を結ばせてくださる聖霊なる神さまとの交わりが、私たち全ての上に限りなくあることを祈ります。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

2020年11月11日水曜日

12月の礼拝と祈り会の予定

12月 礼拝の予定

12月6日(降誕前第3主日)(待降節第2主日)
マタイによる福音書1章18−25節
「神は我々と共におられる」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌 21-242(2), 21-57(1), 94(1), 540
            21-242(2)は賛美歌21の242番2節
            21-57(1)は賛美歌21の57番の1節

12月13日(降誕前第2主日)(待降節第3主日)
ルカによる福音書2章1−7節
    「救い主の誕生」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌 21-242(3), 21-57, 95, 541 
            21-242(3)は賛美歌21の242番3節
            21-57(1)は賛美歌21の57番の1節

12月20日(降誕前第1主日)(待降節第4主日)
マタイによる福音書2章1−12節
「その星を見て喜びにあふれた」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌 21-242(4), 21-57, 107, 544
            21-242(4)は賛美歌21の242番4節
            21-57(1)は賛美歌21の57番の1節

12月27日(降誕第1主日)
マタイによる福音書2章19−23節
「預言が実現するために」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌1, 21-57, 112, 539

12月25日(クリスマス礼拝)
ルカによる福音書2章1–21節
「闇の時代から光の時代へ」
             〜Gloria in Excelsis Deo!〜



12月 祈り会の予定

12月2日
聖書 イザヤ書59.12–20, ローマ16.25–27, マタイ13.53–58, 詩編96.1–13
奨励 浅尾勝哉

12月9日
聖書 士師記13.2–14, フィリピ4.4–9, マタイ11.2–9, 詩編113.1–9
奨励 浅尾勝哉

12月16日
聖書 イザヤ書7.10–14, 黙示録11.19–12.6, マタイ1.18–23, 詩編46.2–12
奨励 浅尾勝哉

12月23日
聖書 ミカ書5.1–3, テトス2.11–15, ルカ2.1–20, 詩編85.9–14
奨励 浅尾勝哉

12月30日
聖書 イザヤ書60.1–6, エフェソ3.2–12, マタイ2.1–12, 詩編27.1–6
奨励 浅尾勝哉

2020年11月1日日曜日

11月1日(降誕前第8主日)礼拝説教

11月1日(降誕前第8主日)
マルコによる福音書4章21−25節
「聞く耳のある者は聞きなさい」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌30, (21)57, 190, 540

 本日は、マルコによる福音書の4章21–25節より、共に神さまの言葉をお聞きしましょう。

 マルコによる福音書4章は主イエスのたとえが幾つも集中している章です。新共同訳聖書の小見出しで言いますと「種を蒔く人のたとえ」、「ともし火と秤のたとえ」、「成長する種のたとえ」、「からし種のたとえ」があります。主イエスは神の国の真理を伝えるために、この地上における誰もが知っている事柄を用いたたとえで、まったく人が見たことのない未知の世界である神の国の真理を知らせようとされました。ですから神の国の真理を知って分かることはとても難しいのであります。そうであるのですが、神の国は主イエスの到来と共に私たちの住むこの世界にもたらされたのです。しかし、まだ目に見えてその存在が分かるものでは有りません。それが明確に分かるようになるのは終わりの日です。その時になれば全てが分かるようになるので、神の国について説明も証明することも必要ありません。主イエスが再臨された時には誰もが分かるものとなるのです。それまで、神の国の秘密は隠されたものであります。神の国がどのようなものであるか目で見たり手で触ったりするなど私たちの五感で確認することは出来ないのであります。私たちは隠されている神の国の秘密を聖書において信仰によって信じる以外ないのです。

 23節に「聞く耳のある者は聞きなさい」と主イエスは命令されています。同様のことが種蒔きのたとえの直ぐ後の9節にも記されています。その時、主イエスは御言葉を語る側であり、12弟子を始めとする弟子たちは御言葉を聞く側であります。同様に私たちも、礼拝において御言葉を聞く側であります。特に御言葉を取りつぐ説教者はとりわけ主イエスの御言葉を深く聞く者でなければなりません。そこには主イエスと弟子たちとの関係と同じ様に、御言葉を語る神さまとそれを聞く人々の集まりである教会との関係があります。私たちは御言葉を聞いたことに対して賛美と祈りによって神さまに応答するのです。神さまはその賛美と祈りを聞かれるのであります。これは神さまと人との交わりでありコミュニケーション、意思疎通のある対話であると言えます。この関係が成り立たなければ御言葉は神の言葉として聞くことは出来ませんし、そのために説教者は正しく御言葉を取りつがなくてはなりません。そして聞く側である私たちは、教会に御言葉を求めて来ています。ですから、その言葉を戯言として聞いたり、聞き流したり、聞き捨てるような人はいません。ただ、私たちが気を付けなくてはならないことがあります。これは日本人の特徴であると思いますが、昔より人から聞いた事はその場限りにして、人に話さない方が良いという処世訓があり、その風潮は現代もあります。「口は災いのもと」とか「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざがあることからも分かるような気がします。ところが、主イエスの御言葉、神の国の福音は、聞いて心に留めておくだけでは全く意味がありません。御言葉を持ち帰るといいますが、それは黙し通すというものではありません。与えられた福音は人に話せば減るものでも無くなるものでは有りません。聞いた人が次々と話すべきこと、宣べ伝えるべきものであります。また、同じ言葉であっても人によって伝わり方や捉え方、響き方が違います。ですから、互いに御言葉を分かち合うことも必要かと思います。今日の説教や聖書の言葉は私には全く響かなかった、よく分からなかった、ということは良くあることだと思います。しかし、同じ説教であっても隣の人には全く違った響き方がする場合もあります。互いの交わりの中で、感じたことを交換したり確認することによって、自分には全く響かなかった聖書の言葉が隣の席の人を通して突然自分の中で響きだしたり、生きて働くことも、時にはあるのです。ですから御言葉は宣べれば宣べるほど、失われるのではなく増えていき、30倍、60倍、100倍の実が結ぶようになると思います。黙して家に帰えれば、宣教はそこで終わってしまうように思います。御言葉を聞く側の人も、ただ聞くだけに留まらず、聞いたこと語るという積極性が求められているのだと思います。私だけかも知れませんが語らなければ、聞いた御言葉が失われるように感じます。主イエスの弟子たちに神の国の秘密が授けられたのも、それを本当に秘密として、誰にも話さないということが目的では有りません。人々に宣べ伝えるために神の国の秘密が打ち明けられたのです。ですから神の国の秘密である福音を聞く者には伝える責任があるのです。キリスト教は密儀宗教ではありません。宣教する宗教であります。

 今日の聖書箇所には2つの重要な伝えるべきメッセージ、神の国の秘密がたとえで語られています。

 21節ですが「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」とあります。新約聖書の時代のパレスチナ地方の一般的な庶民の家は、外壁を白く石灰で塗り固められた土の家であり、窓は非常に小さかったり、全く無い場合もありました。したがいまして、室内は換気が悪く、真っ暗であり、常に「ともし火」の明かりが必要でした。通常オリーブオイルが灯油と使用されていました。消す時に吹き消すと部屋の中がススで煙ってしまいます。そこで、「ともし火」を消す時は古くなった升を逆向きにかぶせてそのままにしておきます。そうすると火は消え、煙は升の中に残って部屋が煙たくなることは有りません。したがって「ともし火を升の下に置く」というのは火を消すことであります。ですから、21節は部屋を明るくするために「ともし火」を持ってきたのに、いきなり升でふたをして消したり、あるいは寝台の下に隠すようなことをする事があるだろうか。勿論、そんな愚かなことをしないだろう。部屋を明るくするのだから、「ともし火」を隠すのではなく部屋全体を照らす場所である燭台に置くのではないですか、という話であると思います。だけど、今はそうなっていないのであります。

 ところで、この「ともし火」は何をたとえているのかと言うことがポイントであります。いろいろな解釈ができます。一つは、神の言葉あるいは福音、また主イエスご自身と解釈することが出来ます。それを踏まえて21節を読みますと、21節は神の言葉を託されていながら、人々に教えようとしないでそれを覆い隠そうとしている当時の宗教的指導者であるファリサイ派やサドカイ派の人々を批判していると捉えることが出来ます。彼らは宗教的戒律を強調しそれに固執したり、政治的な支配者と結びついて、その当時の社会体制を宗教的に正当化することで必死でした。そのため、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」人たちとなっていた、とマタイによる福音書23章4節で指摘しています。本来、彼らは当時のローマ帝国の支配下で生きているユダヤの民のために闇の中に光を灯さなくてはならなかったはずです。そころが、彼らのしたことは、人々のために暗闇に差し込んだ世の光である救い主イエス・キリストを吹き消そうとしたのであります。このように、21節を捉えて「ともし火」を神の言葉であり主イエスご自身のことであると考えることができます。

 違った角度から「ともし火」は神の国であると考えることが出来ます。22節で「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と語られています。21節もそうですが、22節にも、日本語訳には表されていませんが、原文のギリシャ語を確認しますとἵνα「〜ため」という接続詞が重要なキーワードとして使われています。21節は「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と「〜ため」が2箇所あります。続く22節も同じパターンの文章になっています。もう少し原文通りに22節を訳しますと「というのは、隠されたものは、あらわにされないために存在するのではなく、すっかり秘められているものは、あらわになり、公になるため以外には存在しないのだ」となります。ですから22節においても隠れているもの、すなわち秘められたものは、あらわになるため、すなわち公になるためのものである、ということが示されているのです。少し言い換えますと、「ともし火」は升や寝台の下に置かれて隠されてしまうためのものではなく、燭台の上に置かれて公にされるためのものである。それと同様に、今隠されているもので秘められているものも公になるためにあるのだ、ということです。そうしますと、実際は「ともし火」は升の下や寝台の下に置かれて隠されているので、その光は見えない状態であるのです。ですから、20節までの聖書の言葉、特に11節の「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」に着目しますと「神の国」が隠されていると推察できるのではないでしょうか。主イエスが私たちのこの世に来られたことによって、神の国、神のご支配が開始したことは決定的なものとなりました。しかし、その事は多くの人には隠されており、大半の人にはその事実がわかりません。主イエス、すなわちナザレの大工のヨセフの息子であるイエスが神の独り子であり、救い主であり、まことの王であるとは一部の人にしか分からず、大多数にとってその事実は隠されていました。ですから、主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ宣教活動を開始し、福音を宣べ、奇跡のみ業により病気の癒やしをされるのを見て、律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」といい、主イエスの家族は「気が変になった」と見なしたのです。以上申しましたことより、「ともし火」は神の国であり、それは「救い主である主イエス」を指し示すものであり、「神の言」そのものであるといえます。すなわち、「ともし火」はイエス・キリストにおいて到来した神の国であります。

 しかし、この「ともし火」すなわち神の国の秘密はいつまでも隠され、秘密にされたままでいるのではなく、必ず公になり、明らかにされるのであります。すべての人が燭台の上の神の国のともし火に照らされるときが確実に来るのです。22節は、今の時代がたとえ暗黒の様であっても、イエス・キリストの到来により神の国は既にやって来て、開始しており、いずれそれらは全て明らかにされるので、大いに希望を持つようにと教えているのであります。

 確かに、主イエスは十字架の死によって、神の国である「ともし火」は隠されたというか、消されたのです。升で覆いかぶされて、「ともし火」が消されたように、主イエスの「ともし火」は人間の罪によって消されました。しかし、父なる神さまは、主イエスを陰府に捨てたおかずに死人のなかから3日目に復活させられました。そして、その「ともし火」である主イエスのもとに人々を招き集められ教会が建てられたのです。教会はその主イエスの「ともし火」の光に照らされているのです。その光は誰もが確認できるものでは有りません。そのようなことを信じることは出来ないという人は多くいると思います。しかし、教会は主イエスの十字架と復活によって確実なものとされた神の国の到来、神さまのご支配、そして主イエスの再臨による終わりの日に救われて永遠の命を与えられることを、希望を持って信じ、歩んでいるのであります。
 
 この「ともし火のたとえ」の後に「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉が続きます。この言葉は、主イエスにおいて到来した神の国である今は隠されている「ともし火」をしっかりと見る、あるいはそれがあるということ感じなさいということと思います。どのようにして隠されているものを見て感じるのかということですが、それは神の国を明らかにするために語られている神の言葉、聖書が語る言葉を聞くことであると思います。聞く耳のある者というのは、勿論聴力が優れているという意味ではなく、信仰によって聖書の神の言葉を通して神の国の秘密を聞き取る者になるということであります。

 それでは、その主イエスの語られる御言葉をどの様にお聞きすれば良いのかが24節に「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と語られています。「何を聞いているかに注意しなさい」との言葉があります。これは神の御言葉を如何にして聞くかにについての警告であります。神の御言葉をただ漫然と聞き流すのではなく、自分の価値観や判断基準を捨て去り、神の言葉として大きな器で何もかも全てを受け入れなさいと注意しているのだ、と捉えることが出来ます。おそらく、その様に解釈されるのが主流であると思います。しかし、この24節の「注意しなさい」という言葉はギリシャ語の原語では(βλέπω ブレトー)といいますが、これは注意する以外に「見る、見える、知る」という意味があり、どちらかと言うとこの箇所では「見る、知る」の方が色濃い意味合いかと思います。そうしますと「あなた方が聞いていることを見てみなさい」あるいは「知りなさい」とも訳せます。少々妙な訳になるのですが、そこからこの言葉が示す意味が見えてくるのです。最初、神の言葉は人々によって聞かれるのでありますが、御言葉を聞いた人々は、次にその御言葉を実践するのであります。そうすると目に見える形となって神さまの御言葉による思いがこの世で行われていくのです。蒔かれた神の言葉がそれぞれの所で、様々な形で芽を出し、そして実を結ぶということです。したがって、「何を聞いているかに注意しなさい」言い換えますと「あなた方が聞いていることを見てみなさい」というのは、あなたが神の言葉を聞いて実践してなされた出来事がどの様に成されていくのかを見なさい、ということではないかと私は思います。そしてそれを確認できることは恵みであります。具体的な例で言えば、私たちの信仰の先輩たち、今は見えない教会の先輩たちが、神の言葉を聞き実践し、神さまの思いがこの世で実現して新宮教会が建ち、そこでは今も絶やさず神の言葉が語られて、それが実践されている、それを見なさいということです。

 そして「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」という言葉が続きます。これは、私たちが自分の考えによって御言葉の価値を判断して取捨選択し判断するための秤ではなく、神さまがお与え下さる恵みの御言葉をできるだけたくさん受け取ることが出来るような、大きな秤が必要である、と解釈することが出来ます。多くの説教者はその様に説教されていると思います。しかし、やはり私は神の言葉が実践されて生きて働いていることに目を向けたいと思います。神の言葉が人に聞かれ、それが実践され、その神の言葉の実践によって実現されたことをどの様に量るかについて語っておられるのだ、と思うのです。実際に神さまの言葉が生きて働いている、言い換えれば神さまの霊がその為に働いて下さっているのです。仮に、それによって実現されたことが私たちの目に小さなもと写っても、それをちっぽけなものであると短絡的に評価するのであれば、その人は神の言葉をちっぽけなものして過小評価し、聞いた神の言葉をわずかしか信じておらず、その人の信仰は小さなものであると見なされるのである、と理解することが出来ます。逆に、神の言葉によって成されたもの、実現されたことを恵みとして、そのまま正しく受け取るのなら、それは神の言葉をそのまま信じて受け入れているのであって、その信仰のゆえに、さらに多くの神の言葉とそれを実現する神さまの霊が量ることのできない程に豊かに与えられるのだ、ということであります。

 この24節の続きの言葉が25節にあります。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と厳しい言葉で締めくくられています。神の言葉を与えられて持っていたとしても、持っているだけで全く語らず、そして何も行動せず、実践しない、またそれ以上に神の言葉を拒絶し聞くことをしない人は、神の言葉に相応しくなく、折角与えられた神の言葉は神さまによって奪い取られてしまい、そして忘れさられてしまうのである、と警告されているのです。しかし、裏を返せば、神の言葉が主イエスによって与えられ、それを受け入れ、実践する人には、更に多くの神の言葉が与えられるのであると、希望をもってこの警告を受け取ることができるのではないでしょうか。

 神の国の秘密は神の御言葉をとおして、信仰によって知ることが出来ます。私たちが神の言葉を聞くことの備えとして、絶対に必要なものが悔い改め、神に立ち帰ることです。そのことは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉で裏付けられています。神の言葉によって語られていることは神の国の福音であります。それを聞くために私は悔い改めなくてはなりません。神さまへの背きの罪を認めて、神さまのみもとに立ち帰り、赦されなくてはなりません。悔い改めて、神の言葉を与えられることによって、神さまの霊の働きでその御言葉は生きて働き、聞いた者を宣教の働きに就かせて、やがてその働きによって三十倍、六十倍、百倍の実りをもたらせて下さるのであります。そして、神さまの計り知れない豊かな恵みの中に、イエス・キリストの十字架と復活によって実現した神の国の「ともし火」がいよいよ明るくこの世を照らしていることを知らされるのであります。

 祈りましょう。
 イエス・キリストの父なる神さま 御名を賛美いたします。
11月の最初の聖日に、共に礼拝を守ることが出来ましたことを感謝いたします。
 私たちに御言葉を聞く耳を備えさせて下さい。御言葉を聞き、そして聞いた御言葉を実践し、持ち運ぶ者として下さい。世を照らす真の光としてこの世に来られ、共に住まわれ、共に歩まれた主イエスの恵みが私たち一人一人の上にありますように。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してみ前にお献げいたします。アーメン。

2020年10月25日日曜日

10月25日(降誕前第9主日 神学校日)礼拝説教

10月25日(降誕前第9主日 神学校日)
マルコによる福音書4章1−20節
「神の国の秘密」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌26, (21)57 508, 539

 10月11日の礼拝ではマルコによる福音書4章1〜20節の「種まきのたとえ」についての聖書の言葉を共にお聞きしました。その場面は主イエスがガリラヤ湖に浮かべた舟を講壇として、「種まきのたとえ」を話されたというものです。その話の内容は4章の1節から9節と13節から20節に記されています。本日はその2つに挟まれた箇所についてのお話です。3節から9節に「種を蒔く人のたとえ」があり、そのたとえの説明が13節から20節で語られています。そして、10節から12節にはたとえ話がどの様な目的で語られているかについて記されています。非常に解釈するのに難しい箇所と言えますが、今日は10節から12節の3節について考えてみたいと思います。

 4章は一連の出来事のように思えますが、この10節から12節は明らかに、別の場所で別の時になされた弟子たちと主イエスの対話が挿入されていると思われます。1節で「イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた」とあり、41節まで読み進めても、主イエスが舟から降りられたという記述はなく、ガリラヤ湖で舟の上にずっとおられた事がわかります。その舟には弟子たちも一緒に乗っていました。しかし、10節に「イエスがひとりになられたとき」とあります。舟の上から動きようが有りませんので、少々奇妙な表現となっています。おそらく、この3節は後から編集の際にマルコが挿入したのであると思われます。おそらくこの場面は主が群衆から離れて、お一人で祈ろうとされている様な場面であるとイメージできます。全く人里離れた人の寄り付かない山の中や荒れ野に一人で出かけられたという訳では無いようです。12人の弟子と一部の他の弟子らから少し離れた場所であると思われます。12弟子以外にも弟子たちと呼ばれている人たちがいました。そして彼らだけになった時に、実際にはマルコによる福音書のこの場面でのたとえ話は「種まきのたとえ」を1つだけしか語られていないのですが、主イエスの周りにいた弟子たちは、おそらく聖書には書かれておりませんがその時までに話された幾つかのたとえの目的について尋ねました。これは、何故、多くの人々に対してたとえ話をされるのですか?何故ストレートに核心部分の話しをされないのですか?という質問です。

 主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と、弟子たちとそれ以外の他の人々とを分けておられます。3章14節に記されている通り、神の国の秘密について、主イエスを取り囲み何時も御言葉を聞く内側にいる弟子たちと、そうでない外側の人たちとに、それぞれ異なった手段で話されているのです。
 
 主イエスは内側にいる弟子たちには「神の国の秘密が打ち明けられている」のですが、一方、「外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われました。「神の国の秘密」の「秘密」は、ミュステリオンという言葉(英語のミステリーの語源)で、奥義、秘儀、秘密を意味します。そして、「神の国の秘密が打ち明けられている」という言い方は、神の国の秘密が知らされている、与えられている、という意味で受動態になっています。ですから、弟子たちが自分から神の国の秘密を悟ったのではなく、神さまより与えられた啓示的なことによって神の国の秘密を打ち明けられているのであります。それに対して弟子でない所謂外側の人びとには「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解でき」ないようにする為にたとえで教えられるのであります。たとえ話は、難しい事や抽象的な事を、誰もが知っている身近な事に置き換えて具体的に分かりやすく説明する事ですが、主イエスはたとえで語ることによって、それを聞いた人がよく分かって理解できるようにする為では無いということになります。そうでありますと、主イエスがたとえ話を用いられる目的は、主イエスの近くにいる弟子たちには神の国の秘密を明らかにして分からせるのですが、弟子でない所謂外側の人には、神の国の秘密、神の国の真理であり奥義が隠され分からなくするということになります。そして、その理由は外側の人が「立ち帰って赦されることがないようになるためである」と言われます。立ち帰って赦されるというのは、自分で立ち帰るというのではなく、神さまに立ち帰らせていただいく、言い方を変えれば悔い改めさせていただくことで罪が赦されるということであります。

 なお、この12節の言葉は、祈り会で先週共に学びましたイザヤ書6章9節と10節の引用です。ここで主イエスが、イザヤ書のこの箇所を引用されたのは、バビロン捕囚以前になされたイザヤの預言でありますが、イザヤは神さまご自身が当時のユダヤの民の目を塞ぎ、心を頑なにされると預言しましたように、主イエスの時代のユダヤの人々に対しても同様に目を塞ぎ、心を頑なにされて、神の国の秘密を分からせないというものです。ところが、福音を受け入れ信じた弟子たちには、神の国の秘密が打ち明けられて、神の国の奥義が授けられたということであります。念の為に説明しますと、イザヤ書6章9節と10節は「主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』」と書かれており、マルコの引用する本文と言葉遣いが違います。これは、マルコによる福音書が引用されている本文がマソラ本文であるヘブライ語による聖書ではなく、アレクサンドリアで成立した旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳聖書から引用しているからであります。

 ところで、「神の国」とは、どのような世界としてイメージできるでしょうか?決して、景色が美しくて、毎日が楽しい、おとぎの国のようなものでは無いと思います。「神の国」とは神さまのご支配のもとにあり、神さまのご支配が確立されていることであるといえます。主イエスがこの地上に到来されたことによって、この地上における新たな神のご支配が開始しました。それが決定的なことであると、主イエスはマルコによる福音書1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されました。神の国が近づき、それが現実になろうとしていることを、主イエスはたとえ話で表そうとされています。数学の難問であれば解き明かすことが出来るかも知れませんが、「神の国」がどのようなものであるか、私たち人間が四六時中考えても、答えを導き出すことはできません。人間の理性で解き明かすことや、理解することができないものです。それを主イエスがたとえで話されても、考えて分かるものでは有りません。一言で言ってしまいますと、「神の国」とは神さまの支配です。それは神さまのご支配を受け入れて従うか、拒否するのかのどちらかと言えます。説明を聞いて理解したり分かったり、あるいは納得できたから、受け入れるというものではありません。主イエスのたとえが難しいとか、開き直るようですが御言葉を取り継ぐ説教者の話が下手で分かり難いから、信仰が与えられないとか、神の国の秘密が与えられないというものではないと思います。勿論、話は聞きやすく、分かりやすい方が良いに決まっていますが、分かりやすいたとえ話、素晴らしい説教で自分を納得させてくれるのであれば、受け入れてやる、というのは神さまの支配に従うという姿勢とは言えないと思います。先週の創世記1章のお話でもありましたが、聖書は信仰によって向き合うことにより神さまの言葉として聞けるようになるのと同じ様に、神の国についても信じる信仰によってその秘密が与えられるものであって、説明を聞いたり、解説書を読んで理解し納得できるものでは無いと思います。したがいまして、主イエスのたとえは、誰もが分かるように説明するためのものでは無く、神の国の支配をあなたは受け入れるのか、受け入れないのかを問い、その決断を求めていると言えます。そして、神の国を受け入れ、信じた者に、神の国の秘密が分かるように変えていかれるのではないでしょうか。信じることも受け入れることもしない人というのは、まずこの時、既に主イエスのもとから離れてしまったおびただしい群衆がそうであります。また信仰の指導者であり手本となるべきでありますが、主イエスの言葉を聞き神の国の支配を受け入れるのでは無く反発し主イエスを陥れようと企む律法学者や、本来主イエスの理解者であるはずでありますが、主イエスの気が変になったと考え取り押さえに来た母や弟妹などの血縁者などがそうであると言えます。これらの彼ら彼女らは「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」ということに陥っているのであります。

 なお、念の為に申し上げますが、聖書の言葉そのものを客観的に捉え、それが何を表しているのか、どの様に捉えることが出来るのかを学ぶこと、あるいは専門的に研究することを否定しているのでは有りません。学問的に深く聖書を勉強したからといって、必ずしも信仰が与えられたり、聖書の言葉を受け入れるようになる、神の国の秘密が知らされるというものでは無いと言うことです。それと、私たちは聖書を信仰しているのではなく、聖書が指し示している神さまを信仰しているのであるということを常に覚えておかなくてはなりません。

 前回も申しましたが、主イエスはたとえを「私の話した秘密や謎を聞いて悟る者となりなさい」というニュアンスで語っておられると思います。主イエスはたとえ話によって、それを聞く人々にその中に仕込まれた秘密や謎を考えさせるのです。それを直接聞いた人たちも、また聖書を通して聞いた人たちも、その秘密や謎を解き明かそうとしたり、悟ろうとして、悩むのです。主イエスのたとえ話の目的はそこにあるのだと思います。主イエスの御言葉あるいは聖書の全ての御言葉は、理性でスッキリ理解できるものではなく、いつまでも考えさせ、混乱させ、悩ませるものです。秘密や謎、奥義ですから一筋縄では真意に近づくことは出来ないのだと思います。逃げたり諦めたりせずに向かい続けて、求め続けなければならないと思います。このように主イエスのたとえ話は難解な謎掛けの様であります。その秘密を教えられた者にはわかりますが、そうでないと謎のままであります。

 11節にある「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」という言葉ですが、先程も少し申しましたが、「あなたがた」と「外の人々」と人間を2種類に分けて語られています。「あなたがた」というのは神の国の秘密が打ち明けられている人々で、10節にありますように「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」のことです。「外の人々」というのは「おびただしい群衆」を指しています。その人々は主イエスの周りに集まり、あるいはガリラヤ湖の湖畔で少なくとも種蒔きのたとえを聞いた人々です。この人たちは、聞くには聞いたのですが、よく分からないまま帰った、あるいは受け入れることが出来ず反発して帰った、何れにしてもそこに留まらず、帰ってしまった人たちです。しかし、12弟子と他の弟子たち、すなわち主が選んだ者たちは留まり続けたのです。この人たちには神の国の秘密が明らかにされ、示されました。一方、主イエスのたとえ話を聞いたのですが去ってしまった人びとにとっては、謎が与えられたのです。主イエスはご自分の弟子たちにはたとえ話に依らずに、密かに神の国の秘密を全て説明されました。そのことは4章34節に記されています。このように主イエスはご自身の宣教を弟子たちに集中されたのです。マルコによる福音書では、主イエスは弟子たちとの交わりを非常に重要なものとして大切にし、弟子たちを育て訓練されていることを表しています。それは、弟子たちに神の国の秘密を確実に知らせて、彼らのものとなるようにし、次に彼らが彼ら自身の弟子たちに主イエスの宣教を継承させて、さらに多くに人々を神の国へと導き入れる為でありました。キリスト教信仰は大量生産できるものではなく、一人の人から一人の人へと継承されていくものです。本日の礼拝は神学校日礼拝です。日本キリスト教会神学校もこの様に、主イエスの宣教を受け継ぎ伝える者、御言葉の種蒔きをする者を大切に育て訓練しているのであります。

 現代では、主イエスの言葉が福音書として文書にまとめられ、さらに神さまを証しして言い表している言葉が聖書となり、だれもがその言葉を直接聞くことが出来るのです。さらに教会が建てられて多くの人びとに宣教できるようにされたのです。これは神さまの大きな恵みです。ここにいる私たち全てが弟子となり、そしてそれを継承する者を育てるようにと促されているのではないかと思います。ですから、私たちも「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」のように主イエスのもとに留まり続けることが大切であります。

 本日は4章の10節から12節についてお話しておりますが、その前後には10月11日にお話しました「種蒔きのたとえ」が語られています。そのたとえで述べられております秘密の核をなすのは「種を蒔く人の種とは神の言葉であり、神の言葉を蒔くこと」であるということです。弟子たちより始まった宣教で蒔かれた御言葉は少しずつではありますが芽を出して育ち、人間の力ではなく神さまの恵みと働きの中で30倍、60倍、100倍さらにそれ以上の実を結ばせて下さっています。私たちもその中の一粒の実りであり、蒔かれる存在であるに違い有りません。実際に、現在も多くの御言葉の種が蒔かれ続けています。しかし、大半が道端に落ちたり、石だらけの土の少ないところに落ちたり、茨の中に落ちて、芽が出さないことが多くあると、私たちは感じてしまいます。少なくとも私たちの目にはその様に写り、全てが徒労に思え、無力感を持つこともあります。私たちはそう思うのですが、蒔かれているのは神の言葉であり、神の国の実りをもたらす種であります。それは人間の思いや考えでは計り知れない生命力と力を持った種です。どこに落ちても、人間の思いを遥かに超えて、必ず豊かな実りがもたらされていくに違いありません。そしてやがて神さまのご支配が確立され、救いが完成され、全てが神の国に属する時が来るのだということを信じ、希望を持って恐れず進むように、御言葉の種を蒔き続けるようにしなさい、とこのたとえは教えているのだと感じます。

 何度も繰り返すようですが、主イエスのもとに留まり、実現しつつあり、完成に向かって進んでいる神の国のご支配のもとに身を置くことによって、終わりの日にもたらされる希望を感じ取ることができるのであります。主イエスは人となった神の言葉であり、地に落ちた最初の一粒の種であります。その種は罪人の手にかかり十字架上で殺されました。あたかも道端に落ちて芽も出さず、鳥に食べられた無力の種のようでありましたが、十字架の死から復活され、虚しさや絶望、死を打ち砕かれ、その一粒の種はやがて豊かな実りをもたらしました。主イエスの十字架と死、そして復活は私たちの罪を全て洗い清め、新しい者とし、やがて確実に迎えることになる終わりの日には死の支配から完全に解放され永遠の命を生きるものとされる約束であります。主イエスのもとに留まり、主と共に歩み、十字架の死と復活による恵みを信じることによって信仰は与えられるのであります。

 もう一度12節を確認しますが「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」とありますが、この御言葉を裏返せば、主イエスのもとに留まり、共に歩むのであれば、立ち帰って赦される、すなわち悔い改めさせられて赦されると捉えることが出来ます。それは大きな恵みです。神さまのご支配は主イエスの到来により開始し、十字架の死と復活によって人の罪は赦されることになりました。そして主イエスが私は道であるとおっしゃられる通り、神さまへ通じる道が主イエスによって開かれ、私たちが神さまのもとへ立ち帰り、悔い改めることが可能なものとなりました。神さまは私たちに赦しを与えようとして待っておられています。それは主イエスの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で表されています。

 そうは言っても、私たちは繰り返し罪を犯し、神さまのみもとから迷い出る者です。神さまはそのようなことを全てご存知です。ですから何時も御言葉を与え続け、何時も立ち帰らせ、悔い改めさせ続けて、赦しを与え続けようとされておられます。信仰をもって、主イエスを信頼し、信じるということは罪を犯さないということではなく、何時も神さまに立ち帰り続け、悔い改め続けることであるのだと思います。主イエスの招きに応え、御言葉を聞き続けて神さまに立ち帰ることによって、私たちは神の国の秘密と知るものとして、私たちの蒔く神の言葉が30倍、60倍、100倍の豊かな実りを結ぶことになるのであります。

 祈りましょう。
 主イエス・キリストの父なる神さま あなたの御名を賛美いたします。
 今朝も礼拝に招かれ、共に御言葉を賜ったことを心より感謝いたします。
 今日から教会暦は新しい季節に入り、主の降誕に備える9週間が始まりました。私たちはあなたに命を与えられ、あなたに愛されて、あなたに見守られて、この世の道のりを歩んでいます。しかし、あなたへ心を向けるのを忘れ、隣人や親しい人の気持ちを蔑ろにし、自分自身を何よりも優先してしまいます。
 それでも、あなたは私たちに愛を注がれ、そしてあなたに立ち帰ることを待っていて下さいます。私たちがあなたへと立ち帰り、悔い改めて赦されるために、救い主であるイエス・キリストをおくってくださいました。希望を持ってあなたへと立ち帰り、新たに歩みだすことが出来ますように。あなたに与えられた救い主への希望を覚えて歩むことが出来ますように導いて下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。