2020年8月11日火曜日

2020年8月10日伝道師就職式の記念写真

2020年8月10日伝道師就職式の記念写真です。
住吉教会の黒田先生にご提供いただきました。



伝道師就職式のお礼

 2020年8月10日午後2時30分より、日本キリスト教会新宮教会において伝道師浅尾勝哉の就職式が大垣教会牧師有賀文彦先生の司式・勧告により行われました。猛暑の最中、新型コロナウイルス感染症の影響もありましたが無事に終えることができました。また、就職式の模様が大阪北教会でパブリックビューイングされ、オンライン(ZOOM)配信もされました。

参加者は下記のとおりです。
 新宮教会:50名(新宮教会32名を含む)
 大阪北教会:14名
 オンライン:10名

 残念ながらオンラインでは音声が悪く非常に聞きづらいものとなりましたことをお詫びいたします。(テストの時、音声は良かったのですが、肝心の本番では聞きづらい音になりました。今後、オンラインで行う場合、注意が必要であることが分かりました。)

 また、この度、多くの教会や団体、個人の方々から、祝福の葉書、手紙や祝電、更にお祝いを頂きありがとうございます。あらためて、就職式のご報告とお礼の書簡をお送りいたしますのでよろしくお願いいたします。

 本日の記念写真やスナップにつきましては、近々掲載いたします(住吉教会牧師黒田先生より写真を頂く予定です)。

 なお、本日の就職式には熊野新聞社、紀南新聞社、吉野熊野新聞社より取材がありましたので本日の内容を掲載して頂けることと思います。

 本日の就職式と感謝会の模様を録画したものを香里園教会の𠮷田長老より頂きました。音声が聞きづらいものになっております。以下のアドレスよりご覧になることができます。
https://youtu.be/vvp2VbU8bwM

 ZOOMのご手配にご尽力していただきました香里園教会の吉田純長老、大阪北教会を会場としてご用意してくださいました森田幸男先生に心よりお礼をお申し上げます。

                              日本キリスト教会新宮教会

2020年8月6日木曜日

日曜学校主催懇親会(飛雪の滝)

 7月19日(日)の礼拝後、毎年恒例の日曜学校主催の懇親会(バーベキュー)が飛雪の滝キャンプ場(三重県南牟婁郡紀宝町浅里)で行われました。当日は梅雨の合間の晴れ間で、天候にも恵まれ、景色も美しく、バーベキューを味わい、恵まれた交流の時間を過ごしました。

 飛雪の滝の名称は、紀州の藩主であった徳川頼宣が水が天から舞い降りるように流れ落ちる姿を見て、「幾重なす山を巡りて川豊か物は皆装い凝らす秋の色滝つ背の一筋掛かる岩辺の風吹けば飛沫さながら雪の舞い」と美しさを称賛する漢詩を読んだことに由来します。滝の規模は高さ30m、幅12mです。

 飛雪の滝キャンプ場の詳細についてはhttps://hisetsu.jp/main/を御覧ください。









2020年8月1日土曜日

8月2日(聖霊降臨節第10主日)

8月2日(聖霊降臨節第10主日)の礼拝説教を掲載しました。
誤字脱字があると思います。
見つけ次第修正します。

8月2日(聖霊降臨節第10主日)
マルコによる福音書2章13-17節
「罪人を招く」(説教:浅尾勝哉)
賛美歌19, 190, 240, 540


 本日はマルコによる福音書2章13-17節から、共に神様の言葉をお聞きしましょう。先週より2章に入りました。マルコによる福音書は2章1節から3章6節までには、主イエスとユダヤ教の指導者との論争が5つ続きます。新共同訳聖書の小見出しで言いますと「中風の人をいやす」、「レビを弟子にする」、「断食についての問答」、「安息日に麦の穂を摘む」、「手の萎えた人をいやす」の5つです。本日の聖書箇所は2番目の論争である「レビを弟子にする」という場面です。

序論
 先週の礼拝では「体の麻痺した人」への「罪の赦し」を通して罪とはなにか、罪の赦しがどのようにしてなされるのかというお話を聞きました。少し、振り返ります。ここで言う罪というのは、法律違反や犯罪のことではなく、神さまとの関係における事で、神さまとの関係が良くなく、壊れていることで、神さまの愛を見失っていることです。神さまのことを忘れていますので、神さまを軽んじ、御心を尋ね 求めることなく、自分自身を中心に据えて、自分自身を神さまと置き換えようとすることです。こうなってしまうと人間関係も崩れ、隣人との関係も崩れ、人を愛することが出来なくなり、人を憎んだり、傷つけるようになってしまいます。それらは罪によってなされるものです。従いまして、神さまとの関係が崩れ、罪にある状態では自分自身の生き方を喜ぶことが出来ず、隣人との関係も喜べないものに成ってしまいます。私たちの苦しみや悲しみの根底には罪があるのです。しかし、罪は悔い改めて自分自身で反省して、もう罪を犯しませんと誓っても罪がなくなるのではなく、また悔い改めは神さまとの関係を修復するのですから、自分の都合だけでどうにかなるものではありません。神さまからの「罪の赦し」がなければ回復できないものです。カファルナウムの家で主イエスは屋根からつり下げられた「体の麻痺した人」の罪を赦されました。その事を通して主イエスの中心的な使命が「罪の赦し」であることを教えておられました。しかし、この出来事を見てファリサイ派の人等が「神おひとりのほかに、誰が罪を赦すことができるのだろうか」といい、彼らは、主イエスは神ではなく、神を冒涜していると断定しました。これに対し、主イエスは「体の麻痺した人」を癒やすという奇蹟を通して、罪の赦しの権威をお持ちであることを示されました。
 本日は、それに続く箇所で、主イエスによる罪人の招きや、どの様な考えで罪人との交わられたのか、そして主イエスと罪人との関係を巡ってのファリサイ派との論争がなされます。

ガリラヤ湖のほとり
 主イエスはガリラヤ湖畔のカファルナウムにある家で、体の麻痺した人を癒し、罪人の罪を赦す権威を持っていることを示すと、人々は驚愕してたたえました。その後、再び主イエスはガリラヤ湖のほとりに出て行かれました。ガリラヤ湖はマルコによる福音書では繰り返し登場する場所です。ガリラヤは辺境の地ですが、マルコによる福音書にとって、福音発祥の地であり、福音を指し示すシンボルでもあります。また、そこは以前にシモンとアンデレの兄弟、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟であるヨハネの4人の漁師を弟子とした場所です。
 そのガリラヤ湖の湖畔で主イエスは集まってきた群衆に教えられました。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われました。レビは立ち上がって主イエスに従いました。レビは12弟子の1人と考えられています。しかし、3章16から18節に記されている12弟子の中にはレビという名前がありません。2章14節では「アルファイの子レビ」となっておりますが3章の18節では「アルファイの子ヤコブ」という名前が記されています。また、本日の聖書箇所と同じ出来事を語っているマタイによる福音書の9章9から13節の並行箇所では「徴税人マタイ」と書かれています。従いまして、レビ、ヤコブ、マタイと異なった名前で記されていますが、同一人物であると考えられ、どの名前が正しいのかは判断できませんが、徴税人が12弟子の一人にいたことは間違いないと思われます。
 レビが弟子となった経緯は「わたしに従いなさい」という主イエスの召しの一言があり、それに従ったとしかマルコは伝えていません、ガリラヤ湖の漁師であったシモン、アンデレ、ヤコブそしてヨハネの場合も全く同じで、それ以外のことは書かれておりません。この様にマルコによる福音書は主イエスが弟子を選んだ理由、そして弟子たちが何を思い、何を考えて、仕事を捨てて主イエスに従ったのか、その理由について全く語っていません。マルコは主イエスに招かれれば、従うのが当然であり、理由など必要なく、辞退することなど有り得ないと考えているように思えます。また、マルコによる福音書で主イエスが弟子を選ぶ場面はこの5人について書かれているだけで、他の弟子が選びについて何も書かいていません。
 
徴税人
 5人目の弟子となったレビは徴税所で働いていました。徴税所というのは現代における税務署とは全く異なるものです。従いまして、徴税人という職業も税務署の職員とは同じものではありません。現在、日本におけるにおける税金は税務署によって国民や市民から集められています。また税金には非常に多くの種類がありますが、様々な形で国民あるいは市民から集められた税金は日本社会全体を支える資金となります。税金は、私たちが生活するうえで行われる様々な「公共サービス」などに対して使われています。私たちが無料、もしくは安い料金で使うことができる公共サービスは、私たちが納めた税金で運営されています。代表的なものとして、消防車、救急車、パトカー、ゴミ収集、道路の利用などがあります。しかし、徴税人が集める税金は全く違う種類ものです。イスラエルを支配しているローマ帝国の為に、あるいはガリラヤの領主であるヘロデのために用いられるものでした。民の為に用いられるものではなく、自分たちを征服し苦しめている外国の支配者のために税金が徴収されている訳ですから、ユダヤの民にとっては苦々しい事です。また、その税金をローマ帝国は直接自分たちで集めるのではなく、支配地の人間にさせます。ユダヤ地方であればユダヤ人の中から税金を取り立てる徴税人を選びます。徴税人がローマ帝国に納める金額は契約で決まっており、過剰に集めた分は全て自分のものになります。集めれば集めるほど自分の懐が豊かになります。逆に契約額を集めることができなければ徴税人自身が不足分を補填しなくては成りません。そのために徴税人はローマ帝国を後ろ盾にし、税金を支払わない者がいればローマの役人に差し出したり、手荒なこともしていたようです。ですからユダヤの民は徴税人に過剰な税金を払わないわけにいきませんでした。従いまして、神の民であるユダヤ人であるにも関わらず異邦人でしかも敵であるローマ帝国の手先の徴税人となって、同胞から多額の税金を取り立てているのですから、神さまにも同胞にたいしても裏切り者であり、さらに私腹を肥やして富も築いておりますので、罪人として忌み嫌われていました。そのため、ユダヤ人でありますが、神さまに従うのではなく金銭に従っており、同胞からは全く相手にされず、コミュニティーから弾き出されて生活を送っていました。そのような、徴税人であるレビを主イエスは弟子として選ばれました。レビが主イエスのもとに行ったのではなく、主イエスがレビのもとに来られて、収税所に座っているレビをじっと見て「わたしに従いなさい」と言われたのです。そして、直ぐにレビは全身罪の中に浸かりきった状態から立ち上がり、主イエスに従ったのです。レビの人生は一変し、罪を拭い去られレビ自身が全く新しいものとされました。

弟子になる条件
 しかし、なぜレビが弟子に召し出されたのか、また他の弟子たちも、なぜ召命されたのか、何か特別に条件を満たすものがあったのか、そしてどの様な思いで、どの様な考えで主イエスに従ったのか、全て不明であります。しかし、福音書の読者はこれらのことを知りたいのです。主イエスが弟子を召命する根拠、弟子たちの心の動きや心境を福音書の読者である私たちは自分の信仰の歩みの参考にできないものかと、考えようとするのでは無いかと思います。しかし、神さまは人間の側の事情にあわせることは無いと考えられます。また、条件を満たせば弟子として召命されるものではないようです。少なくとも、徴税人のレビは、主イエスに呼びかけられて、それに応えることが無ければ、人々に敵意を持たれたままで、罪の支配から抜け出すことができなかったということは確かです。また罪は罪の大小や重い軽いで比較できるものでは無いと思います。罪は有るか無いかであると思います。罪のない人は居ないと思います。私たちの苦しみや悲しみの根底には罪があります。罪があると、神さまとの関係が崩れ、罪にある状態では自分自身の生き方を喜ぶことが出来ず、隣人との関係も喜べないものに成ってしまいます。そして、罪がある状態から人は自分の力では立ち上がることはできません。主イエスが来てくださり、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さることによって、人は立ちあがり、罪の赦しを受けることができるのです。高みから自分で精進して悔い改めここまで登ってきたら罪を赦そうといわれるのではなく、罪を赦すために、主イエス自らこの世界に下ってこられたのです。

食事への招き
 この様に、主イエスの方からレビに近づいて招きの言葉をかけられたという行為は罪の赦しの行為です。そして、主イエスは神さまと罪人との境界線を打ち砕かれました。その招きに応えて徴税人のレビは自分の徴税人としての役職や利権を清算し、新たな歩みへと入れられました。
 そしてレビは、その喜びと感謝を表すためなのかどうか明確な理由は分かりませんが、宴会を開きました。その宴会には主イエスと弟子たち、徴税人の仲間たちや罪人と呼ばれる人など、多くの人が集まっていました。その中にファリサイ派の律法学者もいました。
 ところで、礼拝に説教と聖餐があるように、主イエスは語るだけでなく、食べることも重要視されました。また食べることにおいて互いの会話や交わりがあります。ここでは徴税人のレビが主イエスの召命に従ったことによってこの食事の交わりに発展しました。礼拝における聖餐式はマタイによる福音書26章やヨハネによる福音書13章に記されている最後の晩餐に由来しているとされていますが、それだけでなくこの主イエスや徴税人、罪人、また弟子たちによる食事会に原型があったのではないかとも言われています。また初代教会では、聖餐のほかに、共に食事をする愛餐もあり、食事はキリスト教信仰の表現の一つでもあります。最近は新型コロナウイルス感染症の影響で聖餐式もできない雰囲気ですが、現代でも聖餐だけでなく愛餐会も教会における業の1つとして大切なものとされています。
 しかし、今日の聖書箇所では、主イエスがおられる豊かな食卓をファリサイ派の律法学者が批判します。

ファリサイ派
 ファリサイ派は律法に厳格で、それを徹底して守ろうとしたグループです。使徒パウロもかつてはファリサイ派に属していました。主イエスが地上で活動された1世紀初期においるユダヤ教では、ファリサイ派以外に、サドカイ派、クムラン教団、熱心党など多様な党派がありましたが、その中でもファリサイ派は民の指導的な役割を果たしていました。会堂や学校で人々に律法を教え、律法で民を従わせようとしました。律法の遵守に厳格だったファリサイ派は、一般大衆を「アム・ハ・アレツ(地の民)」と呼んで、軽蔑していました。特に、ファリサイ派から徴税人や遊女などが「罪人」というレッテルを貼られていました。「地の民」もまた「罪人」も差別的な用語です。また、最近では、宗教的な意味で他教派を「異端」と呼ぶことは差別的表現であると言われています。
 ところで、私が新卒者として就職したのは1985年で、当時は言葉狩りの激しい時代でした。最初に私が勤めたのは公的機関でありましたので、書いた文書は公になることを前提としていました。公にする場合、差別用語やそれを思わせる単語が書かれていないか徹底的にチェックされました。それは文脈ではなく単語のチェックです。万が一、公に出ると、その文章が示す内容には関わりなく、差別を思わせる言葉を使った人間として人格そのものまで厳しく糾弾され、また所属長は監督者として責任を取らされることもありました。現代の匿名で何でもありで、あらゆる事が表現の自由の一言でまかり通るインターネットを中心とする社会とは真逆でありました。聖書の時代には、多くの差別された人がおり、その事が聖書に書かれています。従って表現のために差別的な語彙が用いられます。しかし、その語彙に注目するのではなく、差別されている人に対し聖書はどの様に関わろうとしているのかに注目すべきであり、言葉が如何なる文脈で用いられているのかが大切なことであると思います。しかし、明らかな誤訳や現代社会で使わなくなった差別用語をわざわざ使うのは間違いであると思います。差別は差別される側の目にはハッキリ見えるのですが、差別する側の目には見えないと言われています。そして、差別はする側される側の双方に大きな痛みを与え後遺症を残します。教会においても、慎重に言葉を用いるべきであると思いますが、行き過ぎた配慮によって、伝えるべきことが伝わらなくなることは避けねばならないと思います。

ファリサイ派による論争
 16節に話を戻します。ファリサイ派の律法学者は、主イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難しました。ファリサイというのは分離するという意味があります、ファリサイ派は律法を厳格に守ることで一般大衆である「地の民」とは分離されたものとして、神さまの前で特別に正しい者として生きていると自尊していました。彼らにとって主イエスが徴税人レビの家で大勢の徴税人や罪人たちと食事を共にする行為など論外のことでした。なぜなら、食事を共にするというのは親しい交わりであり、仲間であることを表します。従って、主イエスが徴税人や罪人と共に食事をしていることは、主イエスが徴税人や罪人の仲間であるということを意味しているのであります。ファリサイ派の律法学者にとって、自分たちと同様に神の教えを説いている者が徴税人や罪人の仲間であることは、神や自分たちを冒涜しており、許しがたいことと思えたのでしょう。ファリサイ派にとって律法を守るということはあらゆる不浄なもから自らを清く保とうとすることであり、それがファリサイ派の信仰の目標の一つでした。ですからファリサイ派の律法の理解を物差しとすれば主イエスの行動は許しがたいもかも知れません。しかし、主イエスは、ファリサイ派が監視しようが、人がどの様に思おうが、全く気に留めませんでした。主イエスも弟子たちも、共に食事をすることでレビをはじめとする徴税人や罪人たちとの交わりを深めていったのであります。

結論
 そして、主イエスは「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」というファリサイ派の非難を聞いて言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と痛烈な皮肉を込めて答えられました。ご自身を医者に、罪を病気に譬えておられます。徴税人は律法を無視し、ローマ帝国の後ろ盾を笠に着て、同胞から多額の税金をむしり取る拝金主義者であり、全くの罪人であることを自覚している者たちでした。主イエスはその様な病である罪を癒すために来たのであると言われます。そして「わたしに従いなさい」という招きの言葉が罪人の罪という病気の治療方法であるのです。自分自身を正しいものと自己認識している人のためでなく、罪を犯し、苦しんでおり、癒しや回復を必要とする人たちを招くことがご自身の使命である言われているのです。どこに招くかと言いますと、それは神の国であります。キリスト者、教会に来ている方、それぞれ一人一人がその招きに預かっているのであります。そして、主イエスは罪人を招き、罪を赦し、人を罪から自由にするために来られたことをはばかりなく宣言されるのでありますが、そのために律法学者たちから非難され、神を冒涜するものとして十字架につけられるのであります。従いまして、「罪人を招く」(2.17)ということは、全く革新的なことでありますが、それは言うまでもありませんが無条件で安易な招きではなく、十字架による大きな犠牲による罪の贖いに基づく恵み深い招きであります。わたしたちは、その救いに招かれているのであります。


祈りましょう。
 主イエス・キリストの父なる神さま
今朝も私たちを呼び集めてくださいましたことを感謝いたします。
そして、今あらためて、あなたは真実な方であり、全ての偽りを退けられる方であることを思います。今日もあなたの真実な御言葉をもって私たちに語りかけてくださったことを心より感謝いたします。
 主なる神さま
私たちはあなたから多くの恵みを頂き、生かされています。しかし、そのことを当たり前のように、自分の力であるかのように振る舞っています。また、私たちはあなたから、共に生きる人たちとの多くの交わりを与えられています。しかし、それを自分で得たかのように思ってしまいます。そのために、与えていただいたものを大切にせず、不平をいだき、粗末にしてしまいます。あなたを見失い、自分自身と隣人とを大切にできない私たちをどうか憐れんで下さい。あなたへと心を向け、あなたの恵みに心を開いて従い、感謝をささげることが出来るものとして下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

ミニひまわり

ミニひまわりです。
鳥の餌に入っているひまわりの種を蒔いて育ったものです。




2020年7月25日土曜日

7月26日(聖霊降臨節第9主日)礼拝説教

7月26日(聖霊降臨節第9主日)礼拝説教を掲載しました。

 誤字脱字があると思います。

 見つけ次第修正します。

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7月26日(聖霊降臨節第9主日)

マルコによる福音書2章1-12節

「罪の赦し」

賛美歌16. 187, 246, 539

浅尾 勝哉


 本日は、マルコによる福音書2章1−12節より、共に神様の言葉を聞きましょう。


 先週の礼拝でマルコによる福音書の1章が終わりました。1章を総括するには、大切な御言葉が多すぎて、簡単ではありません。そこで1つだけ主イエスの使命を確認しておきたいと思います。それは神の子として「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と福音を宣べ伝えることです。主イエスは癒しの業もされましたが、教えを宣べ伝えることが、必ず癒しの業の先におかれています。その教えには権威があり、癒しの業には愛がありました。また、福音宣教のために4人の弟子を召し出し伴われました。

 

 そして本日より2章に入ります。主イエスは再びカファルナウムに来られました。カファルナウムは弟子のシモンとアンデレが住んでいた町です。主イエスが多くの人々を教えて癒しを行われた場所です。主イエスによってレプラを清められた人が、そのことを公に語り始めたために、群衆が押し寄せ、一時、主イエスは町へ入れなくなりまりましたが、数日して再びカファルナウムにやって来れ、おそらくシモンの家の中におられました。主イエスの存在は直ぐに知れ渡り、大勢の人が集まり、戸口まですき間もなく人々で溢れ返っていました。そこで主イエスは御言葉を語っておられました。御言葉とは神の国の福音であり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさ」というものです。また福音を語った後に、自らの言葉によって悪霊を追い出し、人々の病気を癒されたことも想像できます。


 戸口まで人で溢れかえっている家の中は、主イエスの教えられる声だけが聞こえ、人々はその言葉を耳を澄ませて聞き入っていました。そこへ4人の男性が中風の人を運んできました。「中風」という言葉は、現代では殆ど使わなくなったと思います。私も中風と言う漢字を聖書で知りました。新しく翻訳された聖書では「体の麻痺した人」と訳されています。4人の男性が「体の麻痺した人」を運んできたのは、主イエスに癒してもらう為であります。しかし、大勢の人がいましたので、主のおられる所まで連れていくことができませんでした。そこで彼らは、主イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしました。4人の行動は、非常識であります。また思い切った大胆な行動であると言えます。主の御もとへ近づくためには、困難を伴います。そのために大胆に非常識なことをしなくてはならないのかもしれません。聖書の解説書には、当時のパレスチナの家は平屋で外側に階段があり簡単に屋上に登ることができ、屋根は平で梁と梁の間に木の枝と泥をこねて詰め込んであるだけなので、比較的簡単に穴を開けることができると記されています。しかし、幾らそうであっても、おそらく、当時の人にとっても屋根を破壊して家に入ってくることは非常識であると思います。家の住民にとってたまったものではありません。

 

 集会が終わり、人が帰ってからでも良さそうに思うのですが、4人の男性たちには急いでおり、待てなかった理由があったと思われます。4人の男性と体の麻痺した人の関係は分かりませんが、4人にとって、一刻も早く「体の麻痺した人」が癒やされることを心から願っていた事は間違いないようです。理由として、体が麻痺した人が重篤な状態に陥り、一刻も早く治療しなくてはならなかったのかもしれません。それより、私は、主イエスの「時は満ち、神の国が近づいた」という御言葉を聞き、急がなくてはならないと感じた、と考えるのが正解の様に思えます。「時は満ちた」というのは神の国、つまり神さまのご支配が始まる時が来たことを示します。だから、その時を逃してはならない、不要不急の真逆の必要至急の緊急事態宣言と捉えたのでは無いでしょうか。そして、すぐに行動を起こしたのではないでしょうか。ですから、のんびり待つとか、人が帰るまで待つなどという常識的な考えはなく、非常識な行動をとったのでした。4人は、神の国の到来に、駆け参じた人たちと言えます。主イエスの言葉を聞き、神の国の到来を信じ、応答したのです。そして、彼らは主イエスが体の麻痺を癒してくださることを信頼しきっていました。また、4人は体の麻痺した人のことを、あたかも自分のように愛していたのではないでしょうか。主イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』と言われました(マタ22.37−39)が、4人はその掟を実践したのではないでしょうか。主イエスはそれらのことを「信仰」として見ておられていました。従いまして、神さまの目線からの信仰は、時と場合によって人の目には非常識に見えることもあるのでしょう。そして、主イエスの与える真の救いは、恥も外聞もなく、人の目線を気にせず、主イエスのみを見つめて求めなくてはならないのです。

 

 主イエスは、4人の信仰を見て、床に乗せて吊り降ろされてきた「体の麻痺した人」に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。おそらく、4人の男性たちが望んでいたのは、罪が赦されるのではなく、体が癒されることでありました。主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」に続いて「悔い改めて福音を信じなさい」と宣べておられるのです。時が満ちて神の国の到来が近づいたのであるから、「悔い改め」て福音を信じなさいと言われたのです。悔い改めは、ます自分自身の罪を知ることが必要です。罪というのは法律違反や倫理や道徳に反すること、ズルをしたり、屋根を破ることも、ここでいう罪ではありません。神さまとの関係における事で、神さまとの関係が良くなく、壊れていることで、神さまの愛を見失っていることです。神さまのことを忘れておりますので、神さまを軽んじ、御心を訪ね求めることなく、自分自身を中心に据えて、自分が主人となり、自分自身を神さまと置き換えようとする、それが罪です。こうなってしまうと人間関係も崩れ、隣人との関係も崩れ、人を愛することが出来なくなり、人を憎んだり傷つけるようになってしまいます。それは罪によってなされるものです。従いまして、神さまとの関係が崩れ、罪にある状態では自分自身の生き方を喜ぶことが出来ず、隣人との関係も喜べないものに成ってしまいます。私たちの苦しみや悲しみの根底には罪があるのです。主イエスは人の根本的な問題が罪にあると知っておられますので、悔い改めて、罪を赦されることが、何よりも先であることを示されたのであります。


 しかし、悔い改めて自分自身で反省して、もう罪を犯しませんと誓えば罪がなくなるのではありません。悔い改めは神さまとの関係の修復するのですから、自分の都合だけでどうにかなるものではありません。神さまからの「罪の赦し」がなければ回復しないものです。主イエスの「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉は神さまと「体の麻痺した人」との関係の回復、悔い改めがなされたことを宣言した言葉です。福音とは、神さまが私たちの罪を、見返りなしに、赦して、新たな関係を結んで下さるという喜ばしき知らせです。この知らせを信じて受け入れること、それに身を委ねることが悔い改めであります。主イエスの「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という教えに応答し、この「体の麻痺した人」を癒したい、救いたい、という4人の信仰を見て、罪の赦しによる救いを告げられているのです。


 ところで、聖書の読み方は時と場合によって様々なものがあります。主イエスの言葉の語りかけに集中しながら読む、あるいは登場人物に自分を投影して、もし自分がこの人であればどうするのだろうと考えてみたり、一語一語確かめながら読む、並行箇所や引用箇所と比べながら読む、などいろいろできるかと思います。私が個人的に感じるのですが、案外、聖書に登場するどの人物にも自分が当てはまると思える時があります。今日の聖書箇所の場合、私は、まず体の麻痺した人が自分に思えます。振り返りますと、4人どころか更に多くの信仰熱心な兄弟姉妹にシッカリと支えながら、それこそ床に乗せられて、主イエスの前に連れて行って頂き、信仰の歩みを開始し今も歩けているのだと感じます。人間は一人では悔い改めることも、受洗も、信仰告白もできません。そのために多くの信仰を持った人の手を借りて主イエスのもとへ連れて行ってもらわなくてはなりません。しかも、主イエスの御もとへ辿り着くのは一筋縄には行きません。それこと、屋根をぶち破り、つり下げてもらわなくてはならないのです。信仰を与えられるというのは多くの兄弟姉妹の尊い奉仕や献身があって、主から与えていただいたものであることを感じます。そうであるなら、与えられた信仰を大切にするとともに、自分が与えられたものと同じものを隣人や親しい人、親や子にも与えたいと願っても不思議ではないと思うのです。そして、次に、私はこの4人の一人に成りたいと願うのであります。しかし、自分が信仰に導かれることよりも、人を主の御もとにお連れすることの方が遥かに困難があることを知り、あらためて私のために祈り、信仰へと導き歩むために支えて下さった信仰の先輩たちの苦労を知り、教会の交わりの大切さを知るのであります。こうして信仰が継承されていくのだと思います。自分一人だけで、熱心に聖書を読み、聖書を深く理解しても、聖書の知識は増えるかもしれませんが、信仰が与えられ、そして養われることは難しいと思います。また、信仰は幾ら仲の良い人でも、親や親族の為にであっても、代わりに信じたり、信じてもらう事ができません。信仰は一人一人に与えられるもので、神さまと自分との関係であります。しかし、その一人一人の信仰は教会の中で教会の人たちと共に信じる信仰でもあります。この箇所をお読みするとそのようなことを感じます。

 

 さて、6節と7節ですが主イエスが「体の麻痺した人」に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた言葉に、人々に紛れて主イエスを偵察していた律法学者たちが「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心のなかであれこれ考えていました。律法学者の「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というのは正しい考えです。そして、人間が自分を神である、あるいは神と等しいものとする、ということは神を冒涜していると考えたのですが、これも間違っていません。ただ、彼らが間違ったのは主イエスが、自分たちと同じ人間であると考えたことです。ところで、この場面は論争とされているのですが、声を発しているのは主イエスだけで、他の人達は一切何も声に出して話していません。主イエスは律法学者らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知ったのであります。心の声を相手にした論争です。


 そこで、主イエスは律法学者たちに『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか、という質問を投げかけます。律法学者にとって困った質問です。どちらが難しいかと問われますと、罪の赦しの宣言は神さまのみができる究極の救いでありますので、罪の赦しの方が難しいに決まっているのですが、確かめようがありません。律法学者たちは主イエスが口からでまかせで罪の赦しを宣言していると考えているようですが、彼らに救いのみ業がなされたのかどうか、評価できないのであります。彼らの本音は評価できない「罪の赦し」より「体の麻痺」を癒やす方が、難しいと考えていました。そして、こちらは見た目で判断できるし、誤魔化しはきかないからです。しかし、人間にとっていちばん大切なことは罪の赦しであり、それは神さまお一人にしか出来ないことでありますが、体の麻痺の治療は罪の赦しに比べると2次的なものであります。律法学者たちは罪の赦しは神さまおひとりのみが出来るののだと言いながら、実はそれを重んじず、内心では体の麻痺の癒しの方が難しいと考えていました。むしろ、病気を治す方が価値のあると思っていたのです。おそらく、その場にいた多くの人たちも同じ思いではなかったでしょうか。罪の赦しより、具体的な苦しみや悲しみのからの解放を求めていたのだと思います。主イエスは、律法学者やその場にいた人々の心の思いを十分浮き上がらせてから、律法学者や人々にとって、この世の判断基準では難しい癒しの御業をなさることで、目に見えない罪の赦しの証明をなさりました。主イエスにとってどちらが難しいという事ではなく、どちらも同じ神の御業であります。律法学者たちの人間の価値判断を逆手に取って、あなたたちにとって難しいはずの癒しの業を示めそうと奇蹟をなさります。主イエスは「体の麻痺した人」に


「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した(2.11−12)。


この様に聖書は語っています。これより、主イエスの癒しの奇蹟が主イエスが罪を赦す権威をお持ちであることを知らせるためになされたことが分かります。主イエスが律法学者にそして人々に知らせ、与えようとされておられるのは罪の赦しであり、神さまの一方的な恵みによって私たちの罪を赦すという、新たな契約であります。主イエスがなされる様々な奇蹟は主イエスこそが罪の赦しを与えて下さる権威を持つ真の神であることを示すための御業であります。


実際に、この場面では、繰り返しますが

「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(2.11−12)。


と記されておりますが、主イエスの思いがどこまで律法学者や人々に伝わったのか疑問です。人々が皆、主イエスには罪を赦す権威があると信じ、主イエスを信頼して従うものとなったとは読み取ることは出来ません。体の麻痺した人が起き上がり、すぐに床を担いで皆の前を出て行ったという目に見える奇蹟にのみ驚き、神さまを崇めながら「このようなことは、今まで見たことがない」と言っただけであります。主イエスの神の国が近づいたと言う言葉を信じて受け止め、すぐに応答した4人は「体の麻痺した人」の体が癒されることを望んでおり、主イエスの福音を正しく理解していたのではありません。しかし、主イエスは的はずれであっても、まっすぐ主イエスの所へ向ってきた行動を受け入れ、信仰を見出してくださったのであります。主イエスは杓子定規な規則に従って人を判断されるのではなく、人の心や思いを捉えて下さるのであります。


 ところで、主イエスはどのようにして罪を赦されるのか、ということはここでは未だ述べられていません。それは、十字架にかかって死んでくださることによってです。したがって、「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉は「子よ、あなたの罪はすべて私が引き受けてこの身に負い、そして十字架に架かり死ぬ。そのことであなたの罪が赦されるのである」と言い換えることが出来るのではないでしょうか。ですから、罪の赦しは、言葉だけの軽いものではありません。病の癒しより、困難なことであります。主イエスの福音は人の罪を赦し、神さまとの新しい契約のもとで、神さまと共に、また隣人と共に喜んで生きることができるようになることです。その為に神さまは計り知れない愛と尊い犠牲を払われたのです。


 祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神さま

今朝も私たちをこの会堂に招き、そして神さまの言葉を共にお聞きできたことを感謝いたします。

私たちは御前にあって罪人です。あなたの戒めに背き、御旨に逆らい、裁きにしか値しないものです。しかし、私たちは自分の力で御心にかなうことができません。あなたの哀れみと恵みを呼び求めるしかありません。どうか、御子イエス・キリストのゆえに、すべての罪をお赦し下さい。そして、あなたに従う新しい生活に導いて下さい。この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

2020年7月19日日曜日

7月19日 (聖霊降臨節第8主日)礼拝説教

7月19日 (聖霊降臨節第8主日)礼拝説教
2020年7月19日 (聖霊降臨節第8主日)の礼拝説教を掲載しました。
 誤字脱字があると思います。
 見つけ次第修正します。

マルコによる福音書1章40-45節
「キリストのあわれみ」
賛美歌15, 181, 285, 544
(伝道師 浅尾勝哉)

 今朝はマルコによる福音書1章40―45節より共に神様の言葉をお聞きしましょう。

 先週の礼拝ではカファルナウムという村において、主イエスによるシモン・ペトロの姑の熱病の癒し、ガリラヤ中の町や村での多くの人々を病気や悪霊から解放するという御業について共にお聞きしました。主イエスは神の国の到来を宣言し、悔い改めて神に立ち返ることを求め、福音を告げ知らせる宣教の働きをしておられました。病気の癒やしや悪霊からの解放は、主イエスの教えを聞き、主イエスに仕える者に変えられる為に必要でありました。病の癒やしや悪霊からの解放の御業は、主イエスの言葉を聞き従うことの妨げである闇の力を取り除くための御業であります。それでも、主イエスは憐れみ深く、人が病気や悪霊によって苦しめられることを見過ごすことはされませんでした。要は私たちは主イエスの人々の病の癒やしや、悪霊からの解放だけに注目し過ぎて、主イエスを優れた医者であり悪魔祓師であると捉えることは間違いであって、主イエスは神の国の到来を告げ、神の恵みによる救いへと招き、福音を告げ知らせる方であり、病の癒やしや悪霊追放が主イエスの到来の目的ではないということを認識しておかなくてはなりません。

 本日の聖書の場面は一変します。39節には「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と記されています。そこには多くの人々が集まり、弟子たちも共にいました。しかし、それに続く40節は主イエスと「重い皮膚病を患っている人」の2名だけの登場です。他には誰もいませんでした。おそらく、人里から離れた場所であると考えられます。

 「重い皮膚病を患っている人」とありますが、まず「重い皮膚病」という言葉について少し時間を取って考えてみたいと思います。言葉の勉強のようですが、私はこの言葉について考えておく必要があると思っています。聖書の言葉が差別を助長したり、差別の根拠として用いられることがあります。それはあってはならないことで、許されないことです。「重い皮膚病」は新約聖書のギリシャ語の原典で「レプラ」(λέπρα)と記されている言葉の訳です。この「レプラ」という言葉は慎重に扱うべきであると思います。

 新共同訳聖書では「重い皮膚病」と翻訳しています。フランシスコ会訳聖書も「重い皮膚病」です。以前新宮教会で用いられていた口語訳聖書では「らい病」と訳されています。岩波書店訳でも「らい病」となっております。新共同訳聖書が出版された当初は「らい病」と訳されていましたが、相応しい訳でないと指摘があり「重い皮膚病」という訳語があてられました。更に、「レプラ」の訳として「らい病」や「重い皮膚病」というのは訳として相応しくないとの判断で、2018年発行の聖書協会共同訳聖書では「規定の病」という訳が選ばれました。2017年版新改訳聖書では「ツァラアト」と訳されています。「ツァラアト」というのは「レプラ」に相当するギリシャ語です。「レプラ」を日本語にどのように訳すのが正しいか、定まっていないというのが実際の所です。

 「レプラ」はヘブライ語では「ツァラアト」といいます。旧約聖書の原典はヘブライ語で書かれておりますが、エジプトのファラオ・プトレマイオス2世フィラデルフォスの命令でギリシャ語に翻訳されました。実際には紀元前3世紀中頃から前1世紀間にギリシャ語に翻訳されました。七十人訳聖書と呼ばれています。そのギリシャ語の七十人訳聖書において「ツァラアト」の訳として「レプラ」という訳語を用いられました。その「ツァラアト」は何であるかということはレビ記13章と14章に規定されています。

 次に「らい病」ですが、現代ではハンセン病とよばれる感染症の一つです。医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生み出されました。現在では極めて稀な病気となっています。また、容易に完治するそうです。なお、聖書の「レプラ」は「らい病」あるいは「ハンセン病」を指すものではありません。岩波書店訳聖書のマルコによる福音書を翻訳された佐藤研先生は「レプラ」に「らい病」という訳を用いた理由は次のように書いておられます。

 一般に「レプラ」は「らい病」と訳されているが、必ずしも正確な訳ではない。これはハンセン病にとどまらず、さまざまな病状の皮膚疹的病理現象を総括する集合概念。当時は祭儀的に特に「穢れた」病と見なされ、患者は強制的に社会から隔離・遮断され(13.46)公の場に出てくることは許されていなかった。また、病を罪の結果の罰とみなす当時の観念の中でも「レプラ」は特にその典型例であった(民12.9−12、代下26.20)。社会的な偏見と差別のあり方が、ここでの「レプラ」と日本の歴史上の「らい病」とでは類似しているので、敢えて「らい病」という訳語にした。

 「レプラ」と「らい病」とは同じではないが、どちらも社会的に同じ様に差別を受けたから「らい病」とした、と述べておられます。聖書学の第一人者であられる佐藤先生のお考えであるのですが、私には受け入れることのできない思いがあります。「レプラ」の規定は広い範囲があり「ハンセン病」もその中に含まれるものであるのかもしれませんが、聖書の律法における「レプラ」に対し規定されている汚れ、そしてそこから生じる差別と、日本の歴史上における「ハンセン病」に対する差別は全く違うものであると思います。様々な点において誤解を招くのではないかと思います。

 また、現在、新宮教会で読んでおります新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳されているのですが、「レプラ」は重いとか軽いとか、重さで判断するものではありません。「軽い皮膚病」なら汚れはないのか、それなら軽い「ハンセン病」なら差別しなかったのか、軽い「レプラ」があったのかという理屈が成り立ちます。

 これらの翻訳を踏まえて最新の協会共同訳聖書の翻訳では「規定の病」という言葉が考え出されました。相当議論され考えられた言葉です。協会共同訳聖書の巻末にその注釈が記されています。どの様に書かれているかと申します。「規定の病」は旧約聖書のヘブライ語「ツァラアト」、新約聖書のギリシャ語「レプラ」の訳語であります。七十人訳ギリシア語聖書が「ツァラアト」を「レプラ」と訳し、新約聖書は「レプラ」を踏襲しているので、「ツァラアト」と「レプラ」はどちらも同じ意味でありますので双方とも「規定の病」という訳にしました。「ツァラアト」はその語源も意味も明らかでありません。「ツァラアト」は祭儀的にな汚れという観点から人や物について書かれています。人について書かれている場合は、何らかな皮膚の疾患を指しますが、病理学的にはいかなる病気であったか明らかでありません。「ツァラアト」の規定についてはレビ記13−14章に詳しい記述があります。「レプラ」も同じく祭儀的な汚れの意味で用いられ、その病の人々を主イエスが清められたことが、奇跡的な出来事として記されています(マコ1.40−45、ルカ17.11−19)。今日の場面がその場面です。「規定の病」という表現も問題があると思います。「レプラ」は人間に対しては皮膚疾患でありますが、衣服や壁などの生ずるカビのようなものも「レプラ」に含まれています(レビ13、14)。「レプラ」は律法によって汚れたものとされたので、患者に対する偏見と差別が生じたのであります。「レプラを患っている人」との接触は禁じられていましたがそれは伝染や衛生上の理由よりも患部が「汚れている」とされていたからであります。汚れた人に触れると汚れが移ると考えられています。この「規定の病」も「病」としての扱いに重心が置かれておりますが、問題なのは律法で規定されている「汚れ」であります。私の個人的な思いは敢えて日本語に訳さず、「レプラ」あるいは「ツァラアト」と呼べば良いのではないかと思います。

 聖書の言葉には計り知れない強さがあります。聖書の言葉を差別の根拠にしたり、また助長したり、誤解を誘発する用い方は非常に危険なことであります。悪意であろうが、善意であってもするべきでは無いと思います。

 そして、40節ですが、「レプラ」の人が主イエスのもとにやって来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言います。この人は「レプラ」を癒してくださいではなく、清くして下さいと願ったのであります。これまでの病の癒しや悪霊からの解放とは異なったことが望まれているのであります。「レプラ」によって汚れていると判断するのは祭司です。「レプラ」と判断された場合のことがレビ記13章45と46に記されています。何と書いているかと申しますと「ツァラアトにかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と書かれています。非常に屈辱的な扱いを受けるのであります。汚れを移さないために家族や仲間たちから離れて、町の外に追いやられて隔離された生活に追いやられます。普通の病とは異なり、自分の家で家族や医者の介護や治療を受けたりできません。人から離れ、人に近づくこともできません。当然、いくら信仰熱心であって礼拝に出ることも、神の言葉を聞くこともできません。この人にとって、「レプラ」から清められ、再び人々との共通の生活の場へ戻ることは切実な希望あるはずです。

 この「レプラ」の人は律法の垣根を飛び越えて、主イエスのもとにやって来ました。おそらく主イエスがどのような方であるか、また永遠の神の御子であるとは知らなかったのではないかと思います。しかし、主イエスの噂を聞き、ただひたすら主イエスの計り知れない力を信じ、近づいたのです。「レプラ」を患っている人の人との接触を禁じるという律法の掟を破り、主の前に来て跪いたのです。そして「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」といいます。これは「あなたが望むのでしたら、私は清められる」という意味です。主イエスが望めば清められるということです。主が清める能力を持っておられることを信じ切っています。あとは主イエスの御心だけを問うものであります。

 そして、主イエスは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」ました。「深く憐れむ」というのは「内臓が揺り動かされる思い」あるいは「はらわたがよじれるような憐れみ」とも訳せるかと思います。「深い憐れみ」と訳されている言葉(σπλάγχνον)は内臓という言葉に由来します。当時、人間の感情の源が内臓であると考えられていたことによります。主イエスは御自身の内臓がよじれるような苦しみと痛みを感じるような憐れみを抱いたのであります。それは主イエスが苦しむ人、悲しむ人に対してお持ちの感性であります。
 
 そして、主イエスは手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。主イエスは「レプラ」の人に触ったのです。これは律法を犯すできごとです。主イエスも汚れた者を身に受けてはならないという律法の掟を乗り越えて「レプラ」の人に触れました。この行為は2000年前の当時において有り得ない行動であります。あたかも主イエスが「レプラ」の人の汚れだけでなく、苦しみや悲しみの一切を代わって、負われたように感じます。そして、「レプラ」は去り、この人は清くなりました。治ったり癒やされたのではなく、「レプラ」は去ってしまったのです。従いまして、「レプラ」は病気とはまた違った範疇のものと捉えることができます。また、この出来事より、主イエスは、人々が苦しみや悲しみからの救いを求められたから、単に人の求めに応えて下さったのではなく、人々が悲しみ苦しむ姿をご覧になり、主イエス御自身がはらわたがよじれるような深い哀れみを感じ取られ、主イエスご自身の意思で人々を癒しておられるのだと言うことを知ることができます。人間の願望の求めに応えて、人間の望む救いをなさるのではなく、主イエス御自身の憐れみの心によって、御自身の意志で救いの御業をなされるのであります。従いまして、主イエスは私たちの方に向けて救いの意志を示されているです。私たちは主イエスのその意志を信じ応答することです。それは主に向き合うことです。

 清くなった人に主イエスは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言われました。ここで主イエスが期待されたのは清くされた人が、律法通りに祭司に体を見せて、モーセが命じた物を献げて、レビ記14章に記されている清めの儀式を受けることでした。そして、それまでは、共同体の外に置かれ、人がいれば「私は汚れたものです」と叫ばなければならない、人を避けて生きなくてはならない生活から、社会復帰することでした。この社会復帰というのは不自由のない衣食住の生活を取り戻すということを意味するのではありません。神の民の一員として礼拝生活に復帰することです。「レプラ」の汚れによって民の一員として生活できなかったのは、汚れによって神さまの前に出て礼拝することができなかったからです。そしてその汚れが民全体に移ると、民全体が神の御前で礼拝することができなくなるということであります。そのために主イエスは「レプラ」をこの人から去らせたのです。新型コロナウイルスの感染症のよって、私たちもつい最近経験しましたが、礼拝が出来なくなるということは、私たちキリスト者の共同体の社会崩壊が起こったということであると思います。イエス・キリストの十字架と復活、救いの恵みが失われることであります。また、主イエスは44節で「人々に証明しなさい」とも言われています。それは律法に基づいて清くなったことを祭司に証明してもらい、そのことが共同体の全て人々へ示されることです。このことより主イエスは御自身の御業が律法を廃止するのではなく、実現するためのものであると示されていることが分かります。

 44節に、主イエスが清くされた人に強い口調で注意された言葉があります。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」という命令です。43節には、激しく注意して、その場を立ち去らせた、と記されています。当時、悲惨な症状と社会的隔離を伴う「レプラ」が治るということは死人の復活に等しい出来事と見なされていました。従いまして、「レプラ」で苦しんでいた人が、直ちに清くされたというありえない大きな出来事に人々が驚愕し、騒ぎ出すことを心配されたからであると思われます。

 しかし、清くなった人は、主イエスの何も話すなという命令にも関わらず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始め」ました。それは単なる自慢話を吹聴したのではありません。この人を命令の聞けない人、口の軽い人と捉えるべきではないと思います。「レプラ」が取り去られ清くされ、神の民の一員として礼拝する生活を回復したことの喜びと感謝を人々に伝えずにはおれなかったのだと思います。「告げ、言い広め」と訳されているκηρύσσω(ケールッソー)という言葉は説教するとか宣べ伝える、説く、という意味として用いられています。洗礼者ヨハネが主イエスに関する教えを「説く」、主イエス自身が神の福音を「宣べ伝える」という時に使われている言葉と同じです。清くされた人は、「レプラ」の汚れの為に、これまでは人と離れ孤立していましたが、今は町の中で人々の中で主イエスの救い、すなわち福音を語らざる得なかったということだと思います。

 しかし、そのことによって、主イエスは「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所」に居ることを余儀なくされました。これは「レプラ」を患っていた人が強いられていた生活の様です。主の清めによって、「レプラ」で苦しんでいた人と主イエスの生活が逆転したのです。これは、主イエスは御自身が「レプラ」の汚れを代わって負って受けて下さり、一人の人を神の民として回復して下さったことを示しています。このことは、主イエスの十字架の死において私たち一人一人にお与え下さる恵みと同じであると思います。

 主イエスは町の外に居ることを余儀なくされましたが、それでも、人々は主イエスの所へ次々と集まり続けます。これは主イエスの望まれたことなのか、そうでないのか分かりません。清くなった人による、主イエスの救いの福音宣教による結果、もたらされたものです。私たちも、自分なりに行った宣教が、主イエスの意向からそれることが度々あるだろうと思います。結局、最後はいつも主イエスに負って解決してもらわなければならないというのが、私たちの宣教であるように思います。

 神学生の時にハンセン病施設である高松大島青松園にある霊交会という教会で礼拝説教の奉仕の機会が与えられたことが2度あります。今日は詳細にお話する時間はありませんが、その際、国家ぐるみで人間はここまで残酷に人を差別をするのかと、人間に潜在する罪深さ、悪魔性を感じました。しかし、神さまは全く別の事をされました。療養所設立の5年後の1914年に療養所の中にキリストの共同体が形成され、教会が建てられ、礼拝が守られるようになりました。私は大島で神さまは生きて働いて居られることを肌で感じました。「レプラ」を患った人は汚れにより、神さまの前に立ち礼拝することが許されませんでした。しかし、ハンセン病の人たちは人間からの差別と迫害を受けていますが、決して汚れたものではなく、キリスト者として神の民の一員として礼拝に加えられ恵みにあずかる一人一人であるのです。

祈りましょう
 イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を賛美いたします。
今日も御言葉を持って語りかけ、私たちを罪の赦しの恵みへと招いて下さいますことを感謝いたします。
 主よ、この世は至る所で、人々を非人間のように変える闇の力が存在します。その力は人々を差別する側と差別される側に分かち、人間同士を対立させ、これ以上ない醜い争いをもたらせます。今この時も差別や争いが至る所に存在しています。どうか主よ、そのような闇の力を私たちから遠ざけて下さい。どうか闇の力を打ち砕いて下さい。主が勝利することを確信し、前に進んでいくことができますように。希望を持って福音宣教と奉仕の業に進ませて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。